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もくじ
1前言
2論道篇(道について)
3修道修心篇(道を修め、心を修めることについて)
4修道四門課程篇(修行における四つのポイントについて)
  @品格 A功徳
  B火候(ひかげん) C礼節
5学道弁道篇(道を学び務めることについて)
6歴練試練篇(試練について)
7知命立命篇(天命を知り、現すことについて)
8広結善縁篇(広く善縁を結ぶことについて)
9気分管理篇(情緒を管理することについて)

 

前言

 1)三期末劫の時期に、ラウム様は、玉と石を共に焼きすてることを、見るに耐えず、ご慈悲で、三曹普渡の命令を下しました。
 おかげで善良の人は済度され(得道して)、生死を超越することができるようになりました。しかし、西洋の風俗が東洋に流れ、人々は科学の技術に迷い、道徳は落ちぶれ、人心は動揺し、真を捨て、妄想を追求し、毎日遊びにふけり、志をなくし、偶像を崇拝し、気違いのようにして人間関係が乱れ、人情が薄くなり、喜怒哀楽が入り乱れ、情緒の管理を怠り、中和の道に背き、互いに争い、だましあって、自ら災難を作り出しました。本当に心ある人にとっては驚くことばかりです。

 2)今日、天が文運を開き、普く、試練を設け、三千六百の聖人と四万八千の賢人を選抜します。師尊、師母が共に天命を受けてから既に、七十年になります。その間に道は海外に渡り、数え切れない衆生が済度されました。しかし、求道者は多くても、真に修練する人は決して多くありません。その原因を探究すれば、
@道をよく認識していない。
A道理がわからない。
B道を修める途中で困難が生じた時、或は道務で壁にぶつかった時に、明路を指示して下さる人が欠けている。
C信念が固くない。少しの試練に挫折し退縮してしまう。等の原因が考えられます。
  得道できた後には、修道、弁道(道を務める)、成道の過程があり、これは自分しだいです。それを怠れば、円満、安然として理天に戻ることはできません。このような情景は実に緒天仙佛は見たくはありません。もちろん、ラウム様が道を降したご慈悲にはかなっていません。

 3)ラウム様のご慈悲で、諸天仙佛は、法会等の場面をかりて、この凡の世界に権化されます。
妙訓(文字として作られたおさとし)、或は白話訓(言葉として発せられたおさとし)で、迷う人達を啓発します。仙佛の作られた善歌の内容は,意味深長で修行の方法を詳しく説明し、また、人間関係や事物への対処法に至るまで分析されています。たとえば、子供としての道、父母の道、学生の道、指導者の道を正しく導いてくださいます。仙佛がこのように丹念に教え伝えるのは衆生達が道理を理解して、疑いを断ち、信念をもって、進んで身を修めるためです。それは、すなわち、自分の本来の性分に立ち返ることを意味します。

 4)権化の時の諸天仙佛の慈しみの心は、人の心を洗い清め,その効果はとても深く、広く、人力及ばざる物です。光慧文化事業会社は台北道場人才学院文学系の方々が長年にわたって蓄積された仙佛の白話慈語を帰納、整理して、その条理を詳しく説明し、「光明の知慧―仙佛慈語」の一書を編集し、第一巻八篇(論道篇、修道修心篇、修道四門課程篇、学道弁道篇、歴練試練篇、知命立命篇、広結善縁篇、気分管理篇)を発行しました。また、続々と新刊を発行する予定です。これらは現代社会の迷いを指摘し、世の人々の迷いを解き、悟りへと導きます。この本を修道、弁道の模範とすれば、一つの灯火が、千年の暗闇を除くことができるように、一つの知慧によって、万年の愚かさをなくすことができることを信じます。

 5)法会に出た時に、恩師が、親切に教えてくださることを思い出してください。諸天仙佛の再三のご指摘は、すべての衆生が法船に乗ることができ、かつ、共に弥勒家園に登り、如来の宝蔵に触れる為です。人は誰でも光明なる知慧を持ち、明心見性ができ、この苦界を超脱することができます。そして修道者がこの大道を、とこしえに生活の中に定着させ、無上至道な広大な天恩師徳を世界の隅々にまで、伝えられることを望みます。
光慧文化事業会社謹誌 中華民國八十九年歳次庚辰【かのえたつ】(西暦2000年)二月十五日。(このページのトップに戻る)

 


論道篇 (道について)

 あなた達が善良に為せば道は永遠に真で、もし心、身、言、行が正しくなければ、正道でも邪道になります。
おのおのが自分の善良な本性を認識することは道です。その通りによく為すことは道です。

 この世の中で生きることはすべて学問です。同様にすべてに道があります。いつでもどこでも、よく見てみましょう。佛堂に来た時だけ道があり、道を行えるのではないのです。どこで生活していても、道を行うことが出来ます。

 人が天地の流れによって、一定の時間に至れば、寝るべきで、これこそ道です。寝る時に寝ないのはいけません。寝てはいけない時に寝てはいけません。

 あなたが人を傷つける言葉を言った時、それに気づくのは自分です。その時、更に、人を傷つける言葉を続けますか?続けないでしょう。これが良知の現れです。すなわちこれが道です。

 道の最高なるところは、ことごとく無言の中にあるのです。 表に現せば、無為自然は道です。

 道は深く着実に、あなたの日常生活の中に存在しています。超能力や神通力を求めることは皆、道ではありません。道は平常なことで、決して特殊ではなく、あなたの生活の周りにあります。只、あなた達が真心で生きていけばわかります。

 道は、あなたがたに本来あるのです。道は天理良心です。道はとても修めやすいのです。もしも天理良心に従って修めれば、修めやすいのです。天理良心、それは佛心(佛の心)慈悲の心、天の心、真の心です。

 本意からはずれた目的を追求することは、よくないことです。正しい心、誠の心を持って他人に接し、他人の為に事を行えば、それは道といえます。

 時間を把握すること、つまり、今、あなたがなにをすべきか、この一刻を把握するのも道です。
 
  道は万物の中にあり、道は生活の中にあり、近く眼前にあり、全てを包みます。あなたが道を必要としていれば、そこには道があり、不必要ならば、そこには道はありません。
 
  道の字には首があります。首は頭を支えます。頭は大切でしょう。大切ならば、道を歩むのです。歩まなければ、届きません。
 
  ものには限度があります。限度を守れば、礼があり、理があり、道があります。
 
  今日、学んだことを、すぐに実践することが道です。今日学んだものを、幾日してから行う、それは道ではありません。自分の欠点に真正面から向かう事を知り、すぐに対応する。それが道です。
 
  道は無言のなかにあり、道は行動の中にあります。頭を下げる謙虚さ、思いやりの笑顔、そこに道があります。
 
  全ての人、事、物に触れ合う事は、みな縁です。誠意、敬意な心を以って、向き合い、大切に対応すれば、それらは、みな道です。
 
  いつでも他人を批評しないでください。道は自分を省みて、改めるものです。
 
  進むも退くも、道理に沿って決めてこそ、道に達していると言えます。
 
  生活は、すなわち道です。如何にしてみんなが、平常心で、喜びの心、楽しみの心があり、比べる心を無くすか、道はここにあります。道は微細の中にありますが、人が細かく作っていくものではありません。思った瞬間が、道です。
 
  道は不思議なものではありません。日常生活とは切り離すことはできません。例えば親孝行、友愛、三綱、五常、八徳、これらはみな道です。
 
  道理がわかったら、すぐに実行しなさい。それこそ道です。
 
  自然は道です。その法則を知り、使ってこそ玄であり、妙であります。
 
  二目守玄(二つの目で自分の玄関竅を守ること)は道です。四六時中は道です。身は塵の中にあります。いつでも、どこでも、心を取り戻して、自分を清浄するべきです。一般的な座禅が、静座だとは思わないで下さい。坐れば頭には多くの事がうかび、かえって静まることはできません。随時随地、二目守玄の工夫をして、自分の所有すべきでない物を貪らず,自分の所有すべきでない物を求めぬことです。あなたの心を尽くして、必要を得られれば、それで十分です。自分の本分を守り、規則を守ることです。(このページのトップに戻る)

 

修道修心篇 (道を修め、心を修めることについて)

 修道人は、たとえ苦労が多くても使命を認識し、多くを実行し、願を多く終わらせるべきです。修道、弁道する人は、その過程で、不満をなくし、悔まない事が必要です。

 道を修めるには時機を把握すべきです。今、修めなければ、機会は失われます。為すべき時を速やかに正確に把握して為すことこそ道です。なぜならば、この時、あなたの心は只道一筋で、雑念が無いからです。

 自分の発心と会得は最も大切です。智慧を持ちたいと思うなら、経験しなければいけません。改善しなければいけません。例えば、ある事が起った時、いかに処理すれば円満になるか、うまく行くかは、智慧を働かせるのです。道を学ぶことも同じで、道を学んだら知行合一を為してこそ、最大の力を発揮することが出来ます。

 見道成道(分かったらすぐに実行すること)を弟子達に望んでいます。今日円満ではないところがあれば、心を尽くして為し、小さい円満から大きい円満を目指します。小さい円満とは、他人に功徳をさし上げ、逆に間違いは自分で責任を持つ、という心がけで成り立ちます。逆に細かい所を見て批判し、誹謗すれば、状況は悪化していきます。

 ラウム様が道を降したのは、あなた達に神通力を教えるのではなく、あなた達に怪しいことを教えるのでもなく、あなた達が、みな、佛である事を示しています。

  自性は自分の身にあり、肉眼では見えません。しかし弟子達が、歴代の古聖先賢及び五大教主を詳しく考査すれば、みな、日常生活の中で修めて成就したことが分かるでしょう。ですから自分の日常を軽視しないように、分かりますか。自分を軽視するとは、どんな意味でしょうか。

  まず、道を修めるには労苦を厭わず、怨恨を厭わないことです。他人と比較しないで、自分が為せる限り為せば、上天はあなたに不当な待遇をしません。条件が熟せば、自然と人々に肯定されます。逆に何もせず、只話しばかり、自分を軽く見て、真心で人に尽くさなければ、認められません。

 生きていれば情緒は変動します。常に、初心を忘れないように保つには、どのようにしたらよいでしょうか。もし私達の信念を常に保とうとすれば、絶えず道を実践し、実行することです。実行の中には挫折や失敗に、直面することもあるかもしれません。しかし、続けていくことで、達成感は得られます。もしあなたが挫折しても、自信を失わず実践すれば、あなたの信念は更に強くなります。

  聖賢が知行合一と言うのは、道を知っていても為さないと、ただの無駄話になってしまということです。また、実践の中に智慧がなければ、道から次第に外れていきます。あなたに一つの信念あれば、一つの善念あります。この本性を生かすには、二、三日の実行では足りません。必ず、絶え間ない実行を一生、死ぬまで続けてはじめて、成就を論ずることができます。これが「常住無間」です。お分かりですか。

 この世も、また、地獄も皆あなた達の行く場所ではありません。私たちは皆、使命を帯びてきたのです。天地は私達を養っています。その天に代わって責任を担い、天に代わって道をのべ伝えるのは、私達の本分です。自分を軽く見ないでください。天地の恩は、父母の恩と同じように、とても大きいのです。

 道を修めるにはよくない念頭を改めることです。本来ある良知良能と、本来知っている道徳観に戻ることです。親には孝をつくし、兄弟姉妹を愛し、恩に報い、願を終わせるべきことは、本来の私たちの性分です。親に孝をつくすのに、何も見返りを求めずに為すのが、本当の親孝行です。
 
  人は自分の本分に対して、責任があります。あなたのなすことは全て、衆生に影響し、自分にも影響します。本日、あなたが佛門に入ってきて、学ぶ事は道です。道はどこにありますか。道は日常生活の中にありますね、それならば、自分は身を以って、道を示し、自分で実行してこそ学んだことになります。

 自分を知るには誠を心に持ち、それを外に表せば人からは佛に見られます。

 そのとき、この世界は天国になります。あなたの心境ひとつで、天国を作る事が出来ます。天国へ佛陀を探しにゆかなくてもいいし、天国に琉璃光世界を探さなくてもいいのです。人と生まれたからにはよく自分の本性を知ることです、自分の本分を外れて、強いて成佛することを求めたり、座禅のなかに求めえたり、通霊したりする必要はありません。心の中にある、もっとも自然な修行方法に合いさえすれば、成佛できます。それは慈悲心の表現です。

  佛を学ぶには最も自然な心、誠の心を用いるべきで、それが一番簡単な方法ですが、けっして平凡なことではありません。これが白陽期の尊いところです。

 道をよく修め、道を上手に話し、口、心、行を合一すべきです。このようにすれば修道者です。修道で一番大切なのは道理を悟ることです。

 逆境に出会ったときは、成長の時です。自分の表だけを見ないで、深く入り、理解すべきです。表だけを繕っていると、他人も貴方に対して、同じようにします。

 道を修めるには、只美しい、美味しい、気持ちがよい事だけを重視してはいけません。苦中の苦をなめてこそ、人の上に立つ人になれます。

 道を行うには公の心が必要です。自分の本分に従うのです。この道を行うのに不平をなくし、悔みをなくし、終わりはありません。疲れたら、一休みをしてから再出発すればよいでしょう。いつでも自分が真面目に行っているかどうか、自分に問い続けていけば、世界に平和をもたらします。この乱れた時代の中で弟子達が皆、心を定めて、心を静め、誠にし、自分を誠にし、人にも誠で、物にも誠を尽くし、あなた自身の本分にも誠であれば、自然に外に現れてきます。

 何事をなすにも同じです。明日まで待つことはいけません。今日を把握し現在を把握し、この時を把握してこそ真で、永遠です。それを自分がやるべきものならば、嫌々ながらなすことはいけません。ご飯を嬉しく食べるように、修道を食事と思えば、美食を頂く如く、喜んで行ってください。一つの念頭の差で、天国と地獄の差が生まれます。

 最も適当な時期に最適な事をなせば、修道です。私達は人に面倒をかける事はしません。状況に直面したとき、よく見て、対処するべきです。人間世界の事を正しく行い、上天も同様です。

 道を修めるには、止まる時がありません。休みは一時の休みで、歩みを止めるのではありません。冷静で積極的な歩みを続けて、平常心を保ちます。仕事をなすには、皆の志を現すことが必要で、自分のために功名を争い奪うことはいけません。仕事をなすには、何をも求めずになせば、上天は自然とあなたに力を与えます。何かを求めてなせば、力は思った通りに出せません。この灯を伝えることが重要です。この慧命を伝え、この千年の灯台を伝え、衆生を導いて真っ直ぐに歩んでいきなさい。

  道を修めるのは佛堂で修めるのではなく、人の前で修めるのでもなく、只あなたが一人ぼっちの時、あなたが一つ一つの事情に直面している時に修める。それが修道です。

  天の果位(くらい)は人間世界で定めるのです。しかし、その果位の為に何かを実行するつもりだったら、それは果位ではない。心が何かに動かされたら、それはもう道ではないのです。

  誰でも皆、すばらしい能力があります。すでに具備しますから、探しに行く必要はありません。迷いの渦に巻き込まれないように、何故ならば、あえて外に道を探しに行かなくても本来は、あなたの内に道はあるのですから。
 
 道を好む人は誠の道を学びます。誠の道を学ぶ人は、いつも台所へいって学びます。常に家の中で、坐ってお気に入りの道を学ぶことではありません。人のやりたくない雑事を行う道をしなさい。

 修道は時時刻刻、とだえる事がありません。休めば、光陰(時間)を浪費します。自分の生命に対して責任を持ち、愛の心を出すのです。実は皆は師の化身で、小済公(公を救う)ですから、済私(己を救う)してはいけません。済私すれば、煩悩が多くなります。

 お正月の時にはみなさんは、よい言葉を言います。常に注意してよい言葉を話し、またよい事を行えば、その時こそ極楽です。

 ふつうは、誰を師となしますか?師が見えないし、師がどこにいるのか知りませんか?それなら、あなたは誰を師にすればよいのですか?天と地と良心を師としなさい。あなたの良心で事をなし、事を話せば、間違いは少なくなります。

 道を修めるのは、いまです。すなわち、いまが修行です。

 人間は往々にして、逆境の中にて成長し、往々に試練にもまれて強くなります。あなたの能力に応じて、上天は仕事を与えます。ですから、自分の能力を軽視してはいけません。

 私心を持ってはいけません。もっと広い世界を見てください。狭い世界に自分を縛ってはいけません。よい話をもっと多く聞き、よく考え、もっと多く行う。そして、無駄話はしないことです。

 仕事をすることは、何事をするにも余裕を持って行う。たとえ、すべての仕事ができても、他の人のために少し残してあげる。また人前で、自分の能力をひけらかさないように注意することです。強情に突き進むと、疲れて止まってしまう。何事も、ほどほどに精進していきましょう。

 天の恩を受けたら決して忘れず、その恩に報いねばなりません。多くの恩を受けたからこそ、願を多く終わらせるべきです。面倒がらずに、余計なことを考えず、心を静かにすれば、雑念は消え、すべてが「空」と分かります。空であれば、どんな煩悩もありません。

 功徳は人の見えない所で積むもので、表に出してはいけません。自分の願のために多くを実践し、口数は少なくしましょう。自分の健康を過信しないで、十分に注意し、自分の生命を大切にしましょう。

 修行は煩わしく、又苦しい、しかし心さえあれば、誠意さえあれば、突破することができます。成否は努力次第です。あなたが上天に何かを求めたら、上天はあなたに何かをあげます。自分の信念を堅く持ち続けるべきで、簡単に変えてはいけません。

 簡単な事でも、常に真心で行えば、以後大事をなすのに、困難はありません。
 
 道を修めるのはとても簡単です。第一に悪い習慣を改めます。第二に人のために己を捨てて、なおかつ見返りを求めません。第三に苛められても、愛情豊かに世の人々を救います。それでこそ聖賢仙佛のステップです。

 あなた達が、苦労することは当たり前で、それは上天があなたに機会を与え、その結果、苦労をすることできます。感謝すべきです。無償の愛、わかりますか。

 道を修めるには先ず自分を改め、なおかつ、先入観を持ってはいけません。自ら観察し、感じ、参加してからはじめて認識することができます。

 人は誰でも佛堂です。あなたが外に出た時、誰でもあなたを見ればあたかも佛堂を見たように、優雅な気持ちで心静かになるでしょう。また、あなたの心は大きい佛堂と同じように誰でも受け入れ、どこにいても人々を導きます。そうすれば、あなたは生き佛です。

 道を修めるには誠心と更に菩薩の心、忍耐の心、布施の心、無為の心、天の心、智慧の心が必要です。

 現在修行するのに最も大きな障害は、他人の行いを批判することです。自分を省みないことです。なぜ師はあなた達がもう一段上に登ることを望むのですか。自分がわかれば、先ず自分に問うはずです。「人のために何をしましたか?」実践できて、その後他人を見ましょう。自性佛が明らかならば、幻が消え、自性佛が明かでなければあなたは幻に迷わされます。

 これから毎日、朝と寝る前に「済公、済公、済公、」を三回唱えなさい。あなた達がいつも唱えることを望んでいます。あなた達が口の中、心の中で唱える済公は師一人の済公ではない、この人の形だけではないのです。形あるものはこわれます。しかし、いかに道をもって情を浄化するかは、この形、この相によらなければなりません。つまり、この肉体があればこそ、この理路を知り、情理を理解し、人情と愛を、公な愛(済公)に変えられます。

 道を修め務めるということを人(他人)に譲ってはいけません、自ら進んで実行することが道です。

 道を修めることをプレッシャーと思ってはいけません。自分が本来行うべきことと思うべきです。もし、修道をプレッシャーと思ったら、だんだん辛くなってしまいます。

 皆が悔いのない心をもって、理天に帰って来ることを師は願っています。あなたたちの涙を衆生の為に流し、あなたたちの喜びや笑いを衆生の為に奉げましょう。そして、持っているすべてを残さずに全部衆生の為に尽くしましょう。これがあなたたちの使命と本分です。

 仙佛になるのは難しくはないのです、今、仙佛菩薩の行いをしているならば、仙佛です。菩提心を発っすれば壇にいるだれでも仙佛です。

  修道には六つの到達点(目標点)があります。心に、手に、目に、口に、耳に、足にそれぞれ到達点(目標点)があります。

慈悲喜捨の心で、貪りをおさえ、平常無為の心で、常に変化する心をおさえ、そして、素朴な心で、虚栄心をおさえ、着実で真面目な心で、油断をなくします。

  理をよく認めて歩むことです。道を修め、務めるのに、ただ人の言いなりに行ってはいけません。戒律を守り、経典を読んで自ら奮い立たせましょう。共に道を修める道親たちや同じ志しの仲間を思い、お互いに励まし合いましょう。あまり形のあるものに執着してはいけません。末期の時には、形のあるものを追求すればするほど執着が多くなります。
 
  自分自身に責任を持ちましょう。皆、自分の本分をよくよく為せば大きい貢献となります。足元がしっかりと固まれば、周りには良い影響が広まっていきます。これも大きな貢献です。大きい貢献といえば自分自身を乗り越えることです。できなかったことをやってみる気持ちが生まれ、また実際に行ってみるのです。

  法を修めるには、法に縛られてはいけません。心を修めるには、心に執着してはいけません。法を修めるとは、今この瞬間に悟ることで、言葉では不十分です。

  重聖軽凡というのは家に帰ってから、自分の役割をきちんと果たすことも含まれます。凡とは欲望で、聖はあらゆる所に存在します。凡はただあなたの私心に存在します。ですから、あらゆる聖と凡の価値観は心から生ずるといえます。難しい所は、どのように判断していくかです。壇にいればこそ聖であると思ってはいけません。故に至るところ聖であり、至るところ凡ありです。

 道を修め、務めるのに、ゴールはありません。願を終わらせても再びこの世に来るのです。何度もこの世に降りて来ます。苦しみを知りながら、あえて苦に飛び込み、乗り越えなければなりません。人生はかくの如きです。自由自在に身を任せてこそ真の自在(菩薩)です。

 心の美しい人は何物を見ても美しく見えます。何ごとも心が大切です。心が美しければ何でも美しいのです。

 よく覚えて下さい。日常生活の中でさまざまなことに出会うとき、必ず感恩の心で接して下さい。今日の問題はどこにあるのか?困難点はどこにあるのか?その事は嫌だと思っても、或いは皆に誉められてもすべてを感恩の心で接しましょう。

 名と利を求めないこと。名と利を求めたら、その中に縛られてしまうからです。一銭でも求めたら同じくこの一銭に縛られてしまうのです。欲望が多ければ又欲望を求めれば求める程終わりはありません。唯一、捨ててこそ解脱ができ、解脱してこそ如何に道を修め、道を歩むのかが分かるのです。唯一、解脱すればこそ、真の自由自在になります。

  この世では、どのようなものに引かれますか。わずかな気持ちの揺れ、一つ一つの念に気をつけなければなりません。一つ一つの念(考え)はあなたたちに多くの影響を与えます。良くない念(考え)は悪い結果を生じますから、更に気をつけなければなりません。

 みずから真剣に、毎分毎秒の目標を明確に決めるべきです。なぜならば、それは自分自身を重く見て、自分自身を確認するからで、決して他人に認めてもらうためではありません。

  すべての宗教の源は、同じ点にたどり着きます。原点がなくてどうして一、二、三があるのですか。木々に、根がなくて一本、二本、三本と幹を伸ばせますか。同じように、正しい目標を決めたら、その善の道を守りながらも、常に原点を忘れずに、無理に我を通そうとしないことです。人は何事にも、執着しやすいものです。修道でもっとも恐いのは執着、それに加えて頑固です。柔軟性を持って、なおかつおおらかな性格であれば、自分の内面と外面は一致する事ができます。

 人は「感覚」のみで一生を過ごしてはいけません。心を込めて真面目に過ごすことです。感覚というものは、他人を責めやすく、傷つけてしまうものです。友達が一人ふえれば、世界が広がります。しかし、すべての外の世界は、ただ援助にすぎないのです。ある日、援助を借りられない時、自分は、どう進むのかを知らないといけません。どう進むのかはあなたの智慧にあります。すべてを外の助けに頼っていたら、自分は永遠に何も出来ません。終始受身で、永遠に自覚できません。人間は自覚を十分認識してこそ、執着から放れることができます。

 自性はどこにあるのか分かりますか?それは揺れる心ですか。それとも落ち着いて静かな心ですか。真の人はどこにいるのか。真の人は明師が一点を指した所にいます。心が疲れたときに心を落ち着かせて一休みをしてから再出発します。

  あなたたちは人の心を読める力を学ぶより、自分の霊性を知ったほうがよいです。なぜならば、もし私達が他人の苦しみを分れば、何ごとにも通じます。ことの経緯がわかれば、すべて理解できるでしょう。おおもとの佛性を悟れば、神通力はただの末端にすぎません。

  信念と目標は貴方の未来を主宰します。あなたの念力、目標は暗を明に化すことができます。逆境を順境に変える事ができます。雲を取り除けば如来をみることができます。
 
 屠刀(豚を殺すためのナイフ)をはなせばその場で成佛できます。この屠刀は心の刃です。よくない欲望は刃です。今、欲望をおろせば成佛です。あなたの佛心佛性が現れます。

 一人の時、自分の心が揺れているかどうか、容易に分かります。あなたたちの心念が貪り、人を損ねることを考え、素行が乱れ、人を欺く言葉を述べ、事をなすに過失あることをしてはいけません。

  心が善ければすべては善い、心が美しければすべては美しいです。

 衆生には佛性があるのです。理天に帰れる自信を持っていますか。それはどんな意味でしょう。「仙佛の本は凡人からなり、只、恐れるのは凡人の心が堅くないからです」。毎日この言葉を自分に三回以上念じて自分を励まし、またお互いを励まし。毎日、自分に話し、他人にも「あなたは必ず成佛します」と話してあげます。人がもしこの言葉を受入れられるなら、その人の行為も、この方向に向かって歩んできます。歩みが早いか遅いかを問わず、只絶えず真理を追求し、真理を守り、全身全霊で打ち込めば、必ず成佛します。

 道は万物を生じ、主宰します。道に沿って行ってこそ円満となります。もし道に背いて行えば、自業自得になります。上天と仙佛は、道理を守らない人を処罰することではありません。只それは、天理が平等だからです。天理はどこにありますか。それは天地良心です。上天、仙佛は皆、慈悲で、あなたが如何なる大罪を犯しても、あなたを処罰しませんが、あんたの良心は、あなたを責めませんか。まず自分の良心に背かないように生きることです。

 本来、生命には深みがあり、広く、明るさがあります。明は明白の明で、明らかに悟ることです。自分を了解し、すべてを明確にして、自分の本性が心を主宰し、また自分の一挙手一投足のことを把握するべきです。道理に明るく、且つ心を広くすることです。もしも、あなたが只道理を守るだけならば、道理はよく分かるでしょう。ですが徐々にあなたは何事も敏感に道理にあてはめようとして、情緒が不安定となり、心が翻弄されていきます。ですから、すべてを包容できる広い心が必要です。

 感謝の心は最も美しいのです。仙佛の精神を習うべきで、一つの慈悲の心を持つべきで、よくよく磨いて、天の心を自然に現すのです。

 社会の不幸、世界中の災難に対してあなた達は、心から黙祷し、縁のある衆生が正道に帰することを希望しています。あなた達の一念は非常に大切で、今日あなたが道を修めたければ、上天が自然とあなたを助けます。あなたが自分に自信がなく、道を肯定できなければ、それは自らが自らを淘汰することを意味します。あなた達が少しずつ学び、真心を用いることを希望します。人が患い、痛みのある時、その時は仕方のない時です。しかし、一念を換えれば、良い方向に向かいます。

 佛門に入りましたら、自分の心の動向は、自分で責任を持つべきです。この世界の老人も若者も、師から見れば全て幼稚です。何故ですか?それは人の見解と知識には限りがあり、弟子たちは常に、その限られた渦巻きの中で争い続けているからです。

 十年前を思い出すと、あなたは何に執着していましたか。それを得た時、気持ちはどのように変わりましたか。また、得られなかった時、何か失った物はありますか。十年前のあなたと十年後のあなたとどんな変化がありますか。人は絶えず精進すべきです。本日修道、弁道できましたのは、あなたが初心を忘れなかったからです。初心は、だれでも同じですが、それを一つ信念として、末永く持つことは簡単ではありません。

  師が弟子たちに言いたいのは、修道する過程に於いて、感情的にならないことです。私心をなくせば、多くを包容でき、より遠くを見渡すことができ、心は広くなります。

  人の心にたくさんの邪魔や煩脳がなければ、すぐに神佛と通じ合えます。「真心があれば、即ち霊妙なり」と言います。神佛の心は、父母が子供に対するように代償を求めず、また、わが子の痛みを自分が受けたがる親心と同じです。

  真か仮か、仮か真か、心中がもし真ならば、空しいことはないはずです。心中がもし仮ならばどこに真を求めるのでしょうか。人がこの世界に落ちたときから、人は五行(金木水火土)に左右され、絶対を求めても、世界は相対的です。もしも、心が自我に執着したとき、真仮を判明することはできません。現実が、あなたの想像するものと隔たりがあるとき、あなたは客観的な判断をとれますか?自己判断に執着しますか?自分の執着が、このような誤った絶対性を生み出します。これは一つの迷い、貪り、嗔の考え方で、正知正見ではありません。何を絶対と言いますか。天地こそ絶対であり、天は言わず地は語らず、これは絶対です。衆生がどんなに地を踏みしめても、地を掘り起こしても、地は黙ってそれを受け入れます。太陽も月も絶対です。朝、太陽が出る時、善人に少し多く陽光を浴びせますか。悪人は太陽の光を少なく受けますか。やはり、天地は絶対であります。世の中は無常であり、それは相対的です。

 欲は悪の根本であり、貪りの心があれば妄想が生まれます。それ故、満足を知れば常に楽しく、己の心を省みて、善性を養う事が必要です。修道者として常に自分を省みて、物にこだわらず理を窮め、心身の執着を取り除き、雑念をなくし、それでこそ真の清浄を得るといえます。

 得ることがあれば、失うこともあります。しかし、あなた達が所有するのは、ただあなた自身です。よくよくわが身と心を善用し、自分が本来やるべきことをして、自分が終わらせるべき愿(がん)を終わらせなさい。自分が尽くすべき責任を尽くし、あまり順境、逆境にこだわらず、ただ一つの過程としてとらえなさい。いま、順境であれ、逆であれ、あなた達は何かを得ることができます。何にも執着しなければ、真心を生かすことができます。佛はどんな心ですか。佛は慈悲の心、無心です。無心は何ですか。無心は執着しないことです。仙佛は、一人の衆生がとくにハンサムだからといって、とくに可愛がることはありません。佛の眼中には皆は佛子です。皆は同じです。美と醜はありません。問題は、ただ一つの心だけです。

 人の心は、他人の言葉一つに影響されます。人の心が固くないと、他人の影響を受けやすいのです。心が動けば、天はすぐに分かります。心が善であれば、天国であり、心が悪であれば、地獄であります。よって、念頭には気をつけましょう。よくない事を考えず、光明の思想を持てれば、光明の事をなすことができ、礼をもって人に接することができます。天国に昇るか、地獄に落ちるかは、一念の中にあります。

 君子は一人の時、自分の考えを慎みます。思想は言葉になり、言葉は行動になります。行動は習慣になり、習慣は性格になり、性格は命運となります。ですから、思想はとても大切なのです。

 疑う心を生じではいけません。心が真であれば、すべでは真であり、心が動けば、天地も動かし、その故に、自分の心をよくよく把握するべきです。人の心は変わりやすいです。一念が善であれば、天国になり、一念が悪であれば、地獄になります。心が美しければすべの物が美しくなり、心が善であれば、すべでの物は善になります。
困難に会った時にどう解決しますか。もし、心が落ち着かず、いらいらしていれば、事情を解決することができますか。まず、心を静かに、落ち着かせて、どのように解決するかを考えれば、多くの妙智慧が自然と生じてきます。智慧はお金では買えない物で、智慧は逆境の中において得られる物です。

 見通す事ができますか、明確に見分けられますか、小さいことにこだわらないことができますか。それは、あなたが今できることです。もし、どんな時でも、良く行うことができ、自分の位に安んずることができ、心を尽くす事ができ、自分の本分を守ることができ、なおかつ、代償を求めないなら、どんなことにあっても、たとえ危険にのぞんでも、恐れることはありません。あなたの人生を悔いなく怨みなく、自分の責任を、よくよく尽くす事を望みます。皆様は常に世界をもっと良く、環境をもっと良くすると言いますが、しかし、自分に問いつめたとき、はたしてどれだけ行ってきましたか。常に環境を保護するといいますが、あなた達の心の環境保護をしましたか。とくに甚だしきは、心にごみが付いた時、そのごみは外に捨てて、他人に文句を言います。ですから、「自分の心をよく把握するべし」これも修行です。

 「妙行無住」「応無所住而心無潮」とは、どのような意味でしょうか。もし心の中に執着や心配事がなければ心は波のように揺れ動くことはありません。その波というのは、あなたの喜怒哀楽、六塵(視る、聴く、嗅ぐ、味わう、感触、知覚)七情(喜怒哀楽愛悪欲)、三毒(貪り、怒り、愚痴)です。この世界で、この喜怒哀楽、六塵、七情をなくすることができれば、それは中庸の道であり、すなわち、私達が言う道です。

 自覚の心をもって成長し、自信の心を以って尊重し、自愛の心を以って何事もおろそかにしないでください。反省する心をもって、品格を高めるように心がけなさい。

 気分が最も落ち込んでいる時、最もつらい時、あなた自身は、この世の終わりと感じるかもしれません。このような世界末日は生死よりも怖いです。それはあなたの心がもう死んだからです。皆様に世界末日がなく、また世界末日を恐れず、さらにもっと勇敢に今ある日々を直視して変えていくことが必要です。未来には、さらに美しい日々があります。あなたが実行しなければ、今までと同じ日々が続きます。あなたの実行で、この世界を変えることができます。あなた方が、他人の心にタッチできるまでに、他人の心に近寄って、さらにもっと人を思いやることを望みます。あなたがたは、世界末日を怖れ、この世界の良くないことを恐れていますが、あなた達は、はたして自分の悪い習慣を変えるために、なにか行動をしたことがありますか。

 あなたの心に仙佛があり、道があり、天があり、さらに衆生があれば、あなたは最高な人です。

 道を修めることは、どのようによくない行為を無くせるか、を学ぶことで、貪嗔痴の三毒、名利、煩悩、不愉快な気分を捨てて、平等心、満足を知る心、恩に感謝する心を持って衆生に対面し、かつ自分自身に対面するのです。
歓喜の心を持って人と接し、ものごとを受け入れれば、不平は起こりません。もしも、不平な気持ちがあれば、どのようにして、冷静に物事に対処していくことができますか。不平があれば、怒りが起こり、人にその怒りをぶつけます。

  師があなた達の家にいきましたら、あなた達の心は法の喜びに満たされるはずです。悲しみ、苦しみ、憂い、そのような気持ちがあってはいけません。私があなた達の家に行ったとき、あなた達の臭い気分に煙りだされることがないようにしてください。人の臭気はとても強いのです。誰もがみな、人間世界は苦海である事を知り、苦の水を吐き続ければ、この苦海はもっと悪くなります。逆に、楽観の心、前向きの心を持つべきです。この苦海を、それぞれの佛堂の中に作らないようにこころがけ、この人間世界を極楽浄土に変え、皆様の家を快楽の天国に変えていきましょう。

 あなたの心が不平ならば、人、事、物、全てに不満があり、不安になります。道を求める事は心の安らぎを求めることです。心が安らかになれば、道理を得て、喜び、円満になります。修行とは、なにを修めるのですか。道は、修める必要はありません。皆が規則を正しく守ればそれでよいのです。

 瓢箪の中に隠されている宝を、いかに開けることができますか。ある場面で、一つの微笑みを布施すれば、それで瓢箪の宝が打ち開けたことを意味します。微笑みですべてのものを受け入れれば、あなたはこの世界が本当にすばらしいことがわかります。みんな、こんなにすばらしいのです。良いか悪いかは、只あなたの心しだいです。あなたたちは何に執着していますか。自分のものに執着しているのですか。ものに執着すれば永遠に煩悩の中にいて、この世界は苦海のようです。まだ波はひかなければ、また波は起こるでしょう。この一波一波は、あなた自分が内面で、平らにする必要があるのではないのでしょうか。あなた達は、風がなければ波は起らないと話しています。風はどのように作られるのですか、それは心の中でおきる是非の風、争いの風、たくさんたくさんの風は人々と自分の間に作り出されたのです。

 あなたが苦しい時、また逆境にいる時、自分の心を平常心に保つことができれば苦と感じません。

 もしも、あなたの心がずっと、楽しみを追うならば、只うまいものを食べることを考え、素敵なものを着ることを考え、それがとても幸せで最も快楽だと思うでしょう。しかし、あなたが知るべきことは、この楽しみは往々にしてあなたを、より苦痛へ誘い、導いていくということです。今日、これをはっきりと了解しましたら、どのような人生の過程においても、あるいは、修道の途中でも、苦痛を恐れず、苦難を受ける事を恐れてはいけません。

 「無邪気の思想」というのは至理至性(もっとも優れた道理、もっとも優れた天性)、純然無汚(純粋ですこしも汚れなく)、反樸帰真(根本に戻る)です。これにより、自然と同化し、少しの貪りもなく、私心もなく、正しい心で、邪なく、赤子の心のように、前後左右もなく、清らかに立つ事が出来ます。

 南極仙翁、済公活佛の「忘」という訓中訓の五篇に、次のことが示されます。貪りの心を忘れれば、常に何事も満足を感じます。愚知な心を忘れれば、何事にも対応することができます。怒る心を忘れれば、常に何事も穏やかになります。苦痛の心を忘れれば、いつも楽しく過ごせます。迷いの心を忘れれば、悟りを開く事が出来ます。

 人生で一番悲しいのは、死ぬことではなく、迷いと執着です。

 生死を終らせるまでには、煩悩を断ち切るべきです。あなた達の煩悩はどこから生じますか。それは貪、嗔、痴からです。「貪」の心は、常に満足を得られず、いつも不平が多く、よく愛欲を生じ、何かを見たら、何かを愛します。しかし、得られないと苦しみを生じます。ですから煩悩は三毒から来ます。三毒は貪、嗔、痴です。「嗔」の心は、思ったとおりにならいと、不愉快になり、心が乱れ、怒るのです。人生において思いどおりにならないほうがほとんどです。もしも、すべてが意のままになる事が出来ましたら、人間でいることはありません。仙佛になっているはずです。「痴」とは思い込みです。真理を知らないために、知らず知らずに迷いに入ることを痴と言います。痴になれば愚です。愚と痴はよく一緒に使われます。この貪、嗔、痴は煩悩の根本です。苦しみの源です。よって三毒を持った衆生は、常に悟りの心をもつことが出来ないのです。常に悟りの境地を保つことが出来れば、あなたは、仙佛、菩薩や聖賢です。悟りとは迷わない心で、常に覚めている心です。覚は迷わず、常に快楽です。もし常に覚性を保つことが出来れば、かならず成道します。なぜ、衆生は、成道出来ないのでしょうか。覚性は、ほんの三分間しか保たれず、外の刺激ですぐに放棄されてしまうからです。

 人はなぜ苦悩がありますか。貪、嗔、痴の三毒の心があれば、自分を失い、迷わせ、常に苦しみを受けます。その苦しみは止まることはありません。「怒りを忘れれば、心は平常である」という言葉があります。憤る心があれば、心は静かになれず、波が起こり、心は清く静かになれず、あなたは三毒の心に縛られ、自由を失っていきます。よって、怒る心を無くす事は苦を忘れ、常に楽しむ事といえます。貪欲の心がなければ、満足します。満足を知れば、常に楽しむ事ができます。愚痴を忘れる事ができれば、常に心が安らかになります。愚痴の心と執着心がなくなることを、安らぎと言います。

 人は、忘れる心も必要です。もし、忘れる事ができれば、自然と清浄の心が得られます。皆様はいつも過去の事を思い出して、貪嗔痴愛の心で苦しみます。もし、この心を忘れる修行が出来れば、悩みを忘れ、すべての不愉快を忘れ、快楽に到着する事ができます。それには、貪嗔痴を忘れる努力が必要で、これを忘れてこそ、迷いを忘れ、常に悟る事ができ、苦を終わらせて、解脱する事ができます。

 成功する人はどんな心を持つべきですか?慈悲の心、愛の心、忍耐の心、人を信ずる心、真心、誠心誠意の心、感謝の心、恩に報いる心、満足を知る心、喜びの心です。

 私達の心に感謝の気持ちがある時、その時の恩徳の心を、いつでも人に伝えていくべきです。他の人もこの恩徳を感じられるようにするには、恩徳を人に推せばよいのです。恩徳を人に推すということは天地日月のような大公無私の心を習うことです。自分が自ら感恩の心を表に現せば、皆は一緒にその恩に感じてきます。その行動が、恩を人に推すということです。

 皆様に望むのは、何かあったときに、すぐに不満を感じてはいけません。不満は、心を乱し、気も静かにならず、思考も偏り、本性に通じることはできません。心が穏やかだと、自然に本性が現れます。たくさんの法(教え)は心より生じ、心より消えるので、心法と言うのです。一般に言われている神通力と言うのは法術があり、真の神通(本性)とは違います。ただ、心さえ静かになり、穏やかになれば、神通が表れます。それこそ真の自分です。

 「無為而為(何のために、を考えずに行う)」とは何ですか?今、心配事が多ければ、得ることは少なくなります。それですから、執着が多ければ多いほど苦しくなり、煩惱も多くなります。 苦しみにあった時、どうすればよいのですか?(一)友達に苦しみを訴える(二)日記を書いて苦しみを癒す。苦しみは、自分の心の執着と迷いです。何事に会っても苦しむ必要はありません。過ぎてしまえば過去の事です。何で心に残す必要がありますか。自分を苦しめないで下さい。考え方一つで、すべては変わります。苦しみを、楽しみに変えることができます。苦しみをゼロにする事もできます。成功か失敗は一念の選択です。成功するように志を立て、志があれば、力が生まれ、心に力があれば、必ず成功します。

 覚えてほしい事は、あなた達は、数えきれないほどの活佛です。私心にとらわれず、自分の為ではなく、常に他人の過ちを指摘せず、自分を省みて、自分の私心に注意し、私心を消していくことです。いつでも正義に従い、心に私をなくせば、自然と公の心が芽生えます。行いが偏ることがありません。正直である時は、偏ることなく、光明正大になれます。

 禅と言うのは不思議ですか。禅の意味は単純の心、という意味です。

 心が誠であれば、上天に祈る必要はありません。自然に天の心に通じることができます。何故かというとその時は、すなわち天心です。苦しみがあり、難があり、肉体が苦を受けた時、その時誠心がありますか。足りることを知らずに貪り続けることで、自分の福をそこないます。

 誰でも、成功と失敗によって人を評価してはいけません。何事をするにも、成敗の中に於いて、自分の能力を量ってはいけません。また、自分を過大評価し、或は自分を低く見すぎてはいけません。

  人が心を尽くした時、往々にして見返りを期待します。それでは、決して快楽にはなれません。「真」はどこにあるのか。人を欺かず騙さず、天真爛漫で、純真の中にあります。本当に真を貫いてこそ成功といえます。人生の困難を突破するには自分の心しだいです。

  生命は短いけれども、一日には一日の光明がありますから、よく把握すべきです。たとえ命が十分間だけ残っていたとしたら、そのとき、ひとりの人に道理を説けば、その功徳は限りないものです。悪い念を正しい念に変えるのは一つの奇蹟といえます。奇蹟は外に求めないで、自分の身の上に奇蹟があります。自分こそ師です。いわゆる迷いを知れば悟りです。自分の迷いを知れば自分は救われます。

 「悟った」なんてあえて証明する必要はありません。それは自分が一番分かります。自分が自分を見るからです。私達が見るのは自分の善良な心、赤子の心です。外に佛や神を求めるのではないのです。それは真から遠ざかることです。

 思想、欲望は白波のように一波また波と打ち寄せて、同じところに安らかにとどまることはできません。 

 あなたが縁に従う事を知った時は、どこにとどまるかを知るでしょう。

  今どうして道が家宅に降るのか。あなた達が己を善くするだけではなく、天下を善に導くためです。このようにしてこそ世界が大同となります。あなたの内心と肉体は同じものを求めていますか。ある時は同じではないかもしれない。これは心と行動は不合一で、心が行動に負けてしまうと自由自在で快楽な修道人にはなれません。

 何事をするにも心を安らかにして、全力を出して、集中すればよく出来ます。必要のない心をなくして、赤子の心、よい心、善念の心を保つと自由自在で、安心出来ます。いつ、いかなる時にも自由自在であれば、佛や天に通じることができます。

  佛は偶像ではありません。また、求めても得られないものでもありません。それは瞬間的な発見で、内心の発見です。この佛心をずっと維持出来れば、もうすでに佛です。

  もしも、人生の真諦を会得出来れば、もう時間に縛られることはありません。一秒でも永遠です。あなた達のこの初心が変わらなければ、将来は必ず輝きに変わります。一を永遠に化し、この道を生かしていけば未来は成佛となります。

  佛性は、円満、調和、平和として現れます。平和というのは、世界が同じ様になるのではありません。みんなの心が円満になる希望を持ち、共に努力することです。自分の心をまず清く、静かに保ち、且つ絶えず前進を心がけましょう。それには忍耐力を持ってこそ、心は修めることができます。

  天人合一を知っていますか。只あなたが願えば、上天はあなたを助けます。あなたの真の主人は上天です。

 凡人の心を無くしたとき、上天はあなたの真心を受け取ります。

 今を把握してこそ悟りです。

 衆生に利益をもたらせること、ただそれだけを考えれば良いのです。

 ただ誠の心を抱き守り、自分を信ずるように他人を信じるのです。上天を信じるには、まず自分を信じることです。
常に心に佛を念ずれば、快適な世の中になります。

 何故、物事には是非があるのですか?それは心から発するのです。それは過去のよくなかった事、現在のよくない事、また未来のよくないであろう事を、心に留めておくからです。これを三心と言います。過去をわすれ、現在を認め、未来を悪く想像しなければ、誠の清静を得ることができ、心の執着もなくなります。

  道を学ぶには、まず、心から始めることです。いわゆる、人相は心より生じ、佛性が表れる時は、良し悪しや善悪の分別はありません、さらに環境にも影響されません。

  肉体の苦しみは、心霊の苦しみに比べることはできません。もし、心霊が愉快であれば、肉体の苦しみをなくします。修道は毎日快楽の心を持ってこそ、本当の修道人であります。これが禅定です。

 心のドアを開いたとき、物事を他者のせいにしてはいけません。まず、自分に要求することです。
 
 何事があっても、自分の責任を全力で尽くせば、それでよいのです。ある局面で失敗に終わっても、精神の成長を認めるべきで、後まで引きずらないようにしましょう。

  自分に何ら、心配事がなく、自在に生き、煩惱を捨てられるのは、自分次第です。

  どのように、自分の佛性を自覚できますか。ただ自分のからだを実践によって修めるだけでよいのです。但し、ひたすら、悟りを求めれば、かえって縛られ、解脱する事ができません。ですから、悟りを開くためには、すべてにおいてとどまる事を避けることです(執着をなくす)。いつでも行いによって修めれば、自然に自覚するものです。

  中庸の道に従うことは大切なことです。中庸の道は、私達の本性です。私達の本性は中正です。あなた達の誠心はどこにありますか。至る所に誠心があります。但し、現在あなた達にはっきりと分らせる為に、一つのありかを指します。この「中正」こそ、私達の終始移さぬ、変わらぬ原則です。

 どのような事情でも、実は善し悪しの判断は、必要ありません。ただ自分の心念を見るのです。何がよい、何が悪いという事に執着しないことです(偏らないことです)。

  皆が子供のような心を持てば、仙佛と通じ合うことができます。子供の心には人の怨みがありません。 もし、道を修めようと思ったら、赤ん坊の心を表すのです。赤ん坊の心は純善無悪の心で、偽りなく、眞心のみです。偽りを去って、誠を存じている時は、真性を得ることができます。「真性」とは何ですか、それは、分別心がないことです。他人があなたに良くしてくれたら、あなたは同じように人に良くします。たとえ、人があなたに良くしなくても、あなたは人に良くしてあげることができます。

人がもし、あきらめられないとき、どんなに考えても考えつかない時、その執着を下ろしなさい。多くを考えても、意味がありません。道を修めるには、初心、天真爛漫の心、純粋な心を保持することです。誰に対しても分別の心があってはいけません。

 もし、人が念を起し、心を動かした時、行為が発生しない前は、まだ制止することができます。また、コントロールすることもできます。改めることもできます。その先に進むと、それは過ちになります。過ちを起こさないように心がけましょう。

  心が仮であれば、すべては仮です。心が誠であれば、何ごとも誠です。誠心であれば一切、すべて光明になります。心が静かにならねば、悪い気を排出します。ですから、他人に良い影響を与えるために、正気を発するべきです。

 美しい心があれば、万物、万事、万人を見てもすべて美しいのです。すべて善です。純善の心があれば、どんな人・事・物を見ても欠点を見つけることは出来ません。ですから、心はもっと広くなります。

 本当に自分を理解した時、唯一あなたを騙さないのはあなた自身です。さらに、仙佛は常にあなたの側にいることを、感じるべきです。常にある力が、あなたを支えています。それは佛性の発揮です。そのとき天と通じることができます。

 執着の心を捨てて、天の心を学べば、あなたに何か必要な時には、何か与えられます。これが天地の心です。禅とは悟ることです。真の禅は自分の心から発するのです。あなたはどんな心をもっていますか。一つの大愛の心ですか、それとも一つの孤愛の心ですか。それは自分しだいです。師はあなた達の発心は皆自分の内心から発することを望みます。それは条件もなく、要求もなく、自ら願って、よろこんで発してこそ、効果があるのです。

 ただ真心があれば、天を感動させることができます。真心を持って生きれば、分別心はありません。自然こそ道であり、一つの公の心、一つの真、一つの誠、一つの永久に変わらない心を生むことができます。

 形にこだわって正常の心を偽ってはいけません。偏った心を持って、道を修めることはいけません。道心を持って心を修めるべきです。心に仙佛があれども、眼中に人がなくてはいけません。
 
 「人の恩を返しきれない」と、よく言われますが、道を持って対応すれば、もう心配ありません。道はもともと自然であり、道はもともと天地の間にあり、道を持てば、天心を持つことと同じです。天心は平等で、利益にこだわりません。天の心、公の心を持てば、間違いを起すことはありません。いわゆる「あやまちを起こしたら、改め、君子は一用の器にならず(柔軟な見解を持つ)」、「あやまちがあっても、はばかりなく改めれば、大の善である」。

 ビルを建てるには必ず基礎が必要です。あらゆることは必ず基礎が必要です。これは一般論ですが、道を務めるときには、あえて執着しなくてよいです。執着、制約、主観がなければ、天地と合わせて一つとなることができます。公の心、且つ済公に達することができます。範囲があり、制約があり、これを私と言います。助けたい心があれば無為が必要で、行動には無心が必要です。これでこそ小済公活佛です。

 天の心を持って執着の心をおさえることは、即ち済公です。

 自分の言葉を慎み、反省してこそ本当の無敵です。本当の無敵は心の中に何も恥ずかしいことがなく、光明として、心に愁いがなく安らかでいてこそまことの無敵です。

 人の心はとても迷いやすいのですから、本性を忘れないことが必要です。忘れてしまうと、貪欲を犯し。貪欲があれば執着します。執着あれば恨みを生じます。ですから、本性を知り、心を正すことが必要で、執着心に支配されてはいけません。物を使いこなすことが必要で、物に使いこなされてはいけません。

 心境を変えることが必要で、心境に振り回されてはいけません。いかにして自由自在にできますか。心を下ろす、心を放すことが必要です。心を放すことにつとめれば、心は安らかになります。どのようにすれば心を安らかにすることができますか。それには、道理にそって生きていけば、自分の本性にもっとも忠実といえます。よって、安静をえることができます。心を広くすることは物の広さによるのではありません。どのようにすれば、心を下ろすことができますか。格物致知(悪を去り、心を正しくして先天的の良知を明らかにする)です。ですから、「心が静寂ならば、道理が明らかになり、心に執着があれば 即ち物欲が生まれてきます。」

  身の回りのものとは何ですか。それは酒色財気です。ですから、(悪を去り、其の心を正しくすることです。)物欲をなくすのです。

 心は仁で、性です。性とは礼のはじまりです。心は本性で、即ち古より聖賢が仁をもとめ、豪傑志士が自分を犠牲にして、仁のために義をおこなうことです。

 不平等の待遇を受けても天を怨まず、人をとがめず、考え方を変えるべきです。必要のない心をなくすべきで、終わらせることが必要です。おわらせるというのは変えることです。何か苦しみを受けても、その苦しみを消す事ができる。これを知るべきです。さもなければ、累積の結果、苦しみは増幅していきます。心はとてもたやすく自分を傷つけます。自らを不健康にします。心が不健康になると、体も不健康になります。

 格心、つまり心を正すことです。格とは正すことです。

 今回のお訓のテーマは「十信」です。それは、信心、念心、慧心、定心、精進心、不退心、戒心、廻向心、護法心、願心です。

 今日のごみは、今日、綺麗に掃除し、今日、捨てなければ、すぐに腐ります。内心のごみも同じです。なぜ今日の仕事は、今日、終了させる必要があるのですか。この終了とは、寝る前に自分で反省することです。これは、真の修行です。

 縁に従ってこそ自在になることができます。あなたがたが自分に対してこの心を持つことを希望します。あなたがたが自分を傷つけないようにすることを希望します。愛を隅々に撒き散らし、必要な人にあたえ、皆様が衆生に対する愛をとこしえにまで休むことなく、与えるように望みます。

 どんな事をするにも、歓喜の心を持って対応することが必要で、人生において何事も完璧であることは困難でしょう。ですから、歓喜の心を持ってこの欠点を受け入れてこそ成長することができます。歓喜の心を持って、この欠点と向かい合って、乗り越えます。よくないものを見れば、それを包容することです。特によいものを見れば、喜んで受け入れましょう。

 心の中に仙佛を念ずれば、仙佛がおります、とても誠に念ずれば、成道出来ます。

 衆生の病、痛みが分かれば、他人の心に通じることができます。衆生の病苦が分かれば、慈悲の心です。慈悲の心があれば、すでに仙佛です。西方は遠いけれども、直ちに到達します。(このページのトップに戻る)

 

修道四門課程篇(修行における四つのポイントについて)


1)品格

 美徳を追求する前に、まず勤勉倹約と真心の二つを具備するべきです。どんな行為に美徳がありますか。善行です。心の中だけでなく行いがあってこそ徳があり、本当の真、善、美があるのです。

 修道人はまず、自分を修める必要があります。自分を円満にさせるのです。身を修め、徳を身につけるにはまず、己を正すことが必要です。「徳」とは何ですか。「徳」とは広く布施し、衆生を救うことです。慈悲喜捨してこそ徳があります。道を得たからには、更に、徳を培う必要があるのです。さらに、身を修め、己を正す必要があるのです。仁を成してこそ、本当に徳を立てることができ、本当の功徳を積むことができます。

 どんなことでも、我が身にかえりみて求め、自分より他人のことを多く考えるように心がけます。それが成熟した大人といえます。自分がひとりになったときには、自分の内面を反省して、人と世間話をするときには、他人の是非を言わないように心がけます。内を省みて、やましいことがなければ、心は安らかです。もっとも大きな災は、貪りから起こります。もっとも大きな罪は、人の是非を話すことからはじまります。

 仙佛になることを学び、修行を学ぶことは一つの靭性(柔軟性)です。それには一つの字「革」が必要で、心を洗い清めて、顔かたちを改めることです。また一つ「刀」の字が必要で、このすばやい太刀で捨てるべき物は切り捨てます。逆に、多くをつかもうとすればするほど、失っていく物が多くなっていきます。人生の処世の哲学を学べば、どんなことをしても、成功します。

 悪い習慣を速やかに改めるべきです。「明日から、はじめる」なんて言わないで、すこしの悪い習慣でも、力を入れて改めるべきです。「明日から改める」なんて言っても、ひょっとしたら一分間も待たずに死んでしまうかもしれません。

 悪い考えだけでも、一つの過ちです。更に行動にうつせば大きな過ちとなります。

  自分をわがままにすれば自らを傷つけます。(このページのトップに戻る)

2)功徳

 今は形のないお金を積んでいます。おわかりですか。(今皆さんが修業していますね!修業は即ち無形のお金を積んでいるのと同じです。) 

すでに、皆さんは理天に口座を持っています。口座を理天に開きましたら無形の預金ができます。無形のお金は、どのようにして預金できますか。それは、功徳です。功徳を立てることは、佛堂だけではありません。今日、人によい言葉を話し、人に親切にしてあげれば、また、小さな手助けを与えればこれらはみな功徳です。生活の中において、誰でも皆、道を行う事ができます。皆さんは、道をよくよく発揮する事ができます。

 恨みがなく、過失がなければ功徳です。恨みなく、過ちがなければ、悔いもありません。これが功徳です。但し、功徳に執着すれば功徳はありません。

 道を修める事には功徳を念頭においてはいけません。これを無くしてこそ本当の功徳です。

  どこでも、人に希望を与えれば功徳があります。今日、佛堂でどのぐらいの事を為したから功徳 があるのではなく、功徳は随時、人に希望を与えるのです。

 布施はお金の布施だけではなく、真心の布施で、お金の多少にかかわらず真心あるか否かのことです。

  布施とは、左手の花を右手に渡すことのように皆自分の手にあります。布施すれば布施するほど度量が広くなるので、これが布施の本当の意味です。

 どんな布施でも只、心があれば、皆とても良い布施です。

 心、面、言、身の四種類の布施があります。
「心」はどのように布施しますか。心が純潔に正しく、汚れなく、偏りの念頭がないことも一種の布施です。なぜかというと心が正しければ、偏りなく心霊のごみを作りません。これも内在的な功徳です。
「面の布施」は、顔に微笑みを浮かべて他人に快楽をもたらし自分も快楽を味わうことです。
「言施」とは、責める代わりに、できるだけ励ましてあげることです。良い言葉を話し、他人を批判しないことです。
「身の布施」とは身を以って模範となり、他人を推し動かし、他人の困難を見たら、他人を助けてあげるのです。
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3)火候(ひかげん)

 あなたは時代に遅れをとらず、同じようにまた自分にも負けないようにしなさい。これは、自分の欲望に負けないようにというだけではありません。また、環境が、大小を問わずあなたに影響を及ぼそうとするとき、影響をされないことが必要です。そのとき「人は強い意志を持てば、必ず天に勝り」といわれます。

 日常生活に於いて、覚えるべきことは、必ず学ぶべき時がきますから、急いだり、焦ったりしなくてもいいのです。どんな困難にあっても、もし、あなたに困難に耐える心と、気力がありましたら、どんな大きな困難でもすべて解決することができます。修道の過程の中に於いて、あなたが大小の試練にあっても、試練の大小を問わず、覚えるべきことは先に心を静めることです。よく考えて、しかる後にそれを取り除きます。

 私の弟子達に望むことは衆生に対して、広く善縁を結ぶことができ、悪を善に変え、不平不満があった時に、我慢して、耐え忍べば、風は静まり、波が平らになります。しっかり覚えなさい。耐えることができれば、あなたのものになります。耐えられれば、あなたのものになります。耐えられなければ、風と一緒にその試練は去ってゆきます。

 あなたが順境の中でも、逆境の中にある時でも、反省の心を抱くべきです。自分の病の源を反省するべきです。

  自分の気を修める事ができますか?煩わしい事に耐えられますか?苦に耐えられますか?誘惑に耐えられますか?人の悪口に耐えられますか?プレッシャーに耐えられますか?自分を改める決意ができましたら、山の如く動かないことと、水の如き徳性(柔軟性)、また聖人賢者の如き心胸、月の如く清静で太陽の如く暖かい、又和やかな風の如き心情を持つべきです。

 苦を乗り越えてこそ、成熟した大人になれます。どうして衆生は苦労することが好きではないのですか。苦労しないと福が少なくなります。苦がつきれば楽が来るのです。忍耐すべきです。忍耐すれば菩薩になれます。菩薩になるのはとても簡単です。人道をきちんと守ることです。ほとんどの人はわがままで、自分さえ良ければ、他人はどうでもかまわないのです。悪い癖、気性は誰にでもあります。不覚にも、怒ったら肝臓の炎を起こします。大きな怒りだと、肝臓の炎が大きくなります。肝臓の炎が大きいと、大きな病気なります。気をつけなくてはいけません。

 道を学び始めたら、力を尽くして、耐え難いことでも積極的に耐え,耐え忍んでこそ希望があり、仙佛になることができます。

 立派な男になり、血を流しても涙を流さない。苦しみはあなたが経験してこそ、何が苦しみかを知ることができます。あなたが、経験したあとは、すでに何が苦であったかを忘れています。なぜかというと、あなたは心の世界が海や空のように広くなっているからです。すでに重荷を担う必要がないからです。

 「天道逆行」とは、常に自分が修道人であることを忘れずに、困難にあっても突破することです。自分が、この荒波に流されてはいけません。もし、修行がとても苦しいと思っても、やはり、この道を歩まなければいけません。人の耐え難きことを耐えてこそ成就することが出来ます。もし、困難に会って退縮すれば、生命の頂点に立つことは出来ません。

 人があなたを叱っても、あなたは怒らず、人に虐められても、あなたは、心が揺れる事がないようにするべきです。
これが火候(ひかげん)です。しかし、もし、自分が間違った時には、素直な気持ちで認めることです。これは進退を知ると言います。この進退を知ることも火候と言います。

 逆境の時に出会っても、受け入れる忍耐が必要です。柔軟性を発揮できれば、煩悩なく、また人に一歩を譲れば路は広くなります。

 本当に強いとは何ですか。怒りの心をおさえることができ、心を低くして謙ることができ、人ができないことを進んで行い、人が耐えられないことを自分が耐え、このようにすれば、修道はスムーズに進み、成長する事が出来ます。

  道を学ぶには、気分を穏やかにする事が必要で、気分を穏やかにするには、心性を修めることが必要です。この心性を修めるには、悪習を取り除くべきです。人間関係の中でこそ信心を磨く事が出来ます。試練に会っても、挫折に会っても、誰も怨むことなく、論争もしないのです。論争があれば、是非に落ちます。是非が先んずれば、中庸の理に符合しません。

 時には、あなた達も一つの弾力のあるゴムマリのように、その圧力のために高く跳ね返ることができます。ですから、もし人から圧力がかけられた時、否定することなく、助力に感じれば、よいのではないでしょうか。(このページのトップに戻る)


4)礼節

 叩首は、自分の佛性を拝むことです。

  命はどのように書きますか。人偏に一叩です。叩首した時には自分に反省を言っています。もし気が立っている時に叩首しても、何を反省することが出来るでしょうか。心が驕り高ぶり、永遠に自分が正しいと思っていたら、何を反省することが出来ますか。人々の心の中には上天から与えられた霊性があり、それは皆、佛性です。ですから、仙佛に対面した時はあたかも自分の佛性を見たように、仙佛にお辞儀をするのは謙遜の気持ちで礼儀正しく反省すべきです。

 作揖する時のように、腰を低くすれば、低い門にぶつかることはありません。つまり、いつでも謙遜する心を忘れなければ、日常生活を円満に過ごせます。

 更に左足を前に出して事を為す如く。すべての事は焦らず急がず、また軽率にしない事を意味します。孔子様が言われた中庸の道の如くです。事を為すのに何も考えずに、只為すだけなら、中庸の道に合わないのです。考えるだけで、何もしなければ、やはり理想は実現出来ません。ですから、人として世の中に処するには、一歩一歩しっかりと確実に歩んで行くべきです。よって、私達が、仙佛に叩首する時は、私達自身の反省をするのです。曾子様が言われた言葉に「吾、日に三度吾が身を省みる」があります。毎日、自分を省みることによって、一代の聖人になることが出来ました。道を修め、道を学ぶ過程において、心を調整することを知り、落ち着き、環境が心に従って回ることを知るべきです。心が環境に従って回ってはいけません。

 礼節は、あなた達をもっとも成長させ、あなた達を標準の人に育てるのです。
 
 叩首する時、真心でなければいけません。自分の佛性に集中して、その佛性が自分を照らしていることを自覚すべきで、背筋をまっすぐにし、頭部は力をぬき、手と頭を一緒に動かし力は足で支え、叩首は叩手ではなく、頭を下げる動作です。これが、一貫道の精神です。叩首する時は誠心が必要で、その目的は恭敬、謙遜な心を養うためです。且つ叩首する姿勢が正確であれば、経脈(身体の中心を通る脈)も貫通でき、健康に良いのです。

 叩首する時、瞑想が必要です。仙佛を黙想し、自分の佛性に集中すれば叩首に意義が生まれます。(このページのトップに戻る)

 


学道弁道篇(道を学び務めることについて)


 あなた達は皆まだ若いですが、人生は無常です。未来は予知できませんが、毎日きちんと誠実にすごせば、人間界は天国のようになり、毎日、天国にいるようになるでしょう。実は、私(恩師)は既に天国を人間世界に引きよせましたよ。衆生は誰でも期待を持つべきです。新しい世紀に向かって、修道者でも、一般人でも、もっと辛抱づよく、信念を強く持ち、己を充実するべきです。己を充実しなければ、方向がなく迷いに入り、時代に淘汰されてしまいます。

 あなたはこの法船の船長です。他人に崩れされることはありません。船長として、前方に向かって、力強く船を漕ぎ、前進するべきです。もし、油断すれば船を転覆させてしまいます。ですから、どこでも、どのような役割でも、「最後は成佛する」この信念を硬く持ち続けるべきです。あなたは人間世界を天国に化す重要な役割、力です。何処へ行ってもこの心は変わりません。

  あなた達はずっと求めています。何を求めていますか。妙を求め、良い事を求め、乗員を多くする事を求めています。これも一つの執着です。出発点はとてもよい。衆生の利益の為に求め、なおかつ、世俗の功名利益を軽く見る。それを道場に適用すれば、すべては円満になります。

 たくさんの事は皆で一緒に務めます。誰かが、もっとも強いから、もっともよいのではなく、自分は他人と比べて、特に突き出ることはいけません。皆と一緒に協力すべきです。

 下ろすべき荷物(執着)は下ろし、また再び重荷にならないようにします。しかし、受け担うべき事は逃れ、避けてはいけません。人は誰でも使命をもっています。点伝師、講師だけが使命を持っているのではありません。衆生は誰でも使命を持っています。各々が己の愿を終わらせ、己の仕事に誠意を持ってつとめ、出過ぎた事がなにように気を付け、自分の立場にもとづいて行い、なおかつ、事を務めるには一致団結すべきです。

 ある事を完成するためには必ずお互いの志が一致する事が必要です。もしも、自我が出てしまうと、失敗します。ですから、どんな事でもお互いに目標を認識し、それを達成すべきです。お互いの認識というのは共通の認知です。共通の認知があれば、心が一つになります。あなたに一つの意見があり、それを無理に通そうとすると、遂には分裂してしまいます。同じ修行者として一緒に道を務めるには、お互いの認識が必要です。私達はグループの中で生活しているので、お互いが認識するにはコミュニケーションが必要です。弟子達は手に手を取って、心と心をつなぎ、同じ認識に到達する事ができます。あなたと私、という区別をせず、是非を論ぜず、この世界はとても苦しいから、もうこれ以上の争いを作らないようにしましょう。宜しいでしょうか。

 大道は普及しましたが、皆が一緒に努力してこそ、天命は永遠に存続します。心ある人には、使命があり、天命の護持、助力があります。

 あなた達は皆、師の代表者です。弁道は、お医者さんと同じように、どこでも苦難があれば、行って救ってあげることです。至るところで功徳を行い、善縁を結ぶことです。

 上天は誰にでも同じようにチャンスを与えてくれます。受け取れるか、受け取れないか、それは、皆の努力次第です。あなたに心があるかどうかによります。

 道を学ぶときは、強いて己に厳しくしても良いでしょう。その内には柔軟性もありますが、自分の心のままにしてはいけません。人に指導されるべき時に、見捨てられ相手にされなかったら、あなたは気の毒な人です。人があなたを監督することは、あなたを愛するからです。あなたが好きだからです。あなたが良くなる様にあなたを監督するわけです。ですから、周りの人があなたに要求することは、あなたがよくなることを望んでいるからです。

 道を務めるには、自分に勝ち、また、他人にも勝つべきです。何故自分に勝つのですか。自分の癖、良くない習慣を断つことです。他人に勝つとは何でしょうか。他人が前進を緩めても、それに影響されて怠ってはいけないということです。

 人間の安定(やすらぎ)はどこにありますか。徳が高い人や道を務める心があり、衆生を済度、教化する心のある人ならば、使命も強くなります。もし、いい加減な気持ちであれば、上天は使命をあなたに敢えて与えることはありません。

 汗と涙が混じりあってできた仙丹は一服の妙薬です。
 
 絶えず成長することを自分に要求して、止まることがありません。分かりますか。外在には止まる点があるかもしれませんが、内心、内徳の培養は、きりがないのです。ある成長の段階で、満足することなく、常に求めるべきです。絶えず、上昇すべしです。そうすれば、止まることがありません。煩わしく考え、憂鬱に思うことがなくなるはずです。あなた達が、挫折を感じるのは、心境がそこまで至っていないからです。そのため、自分のした事に疑いを抱き、茫然と感じます。もし、そこまで整えることができれば心がとてもすっきりして、スムーズに感じます。多少挫折を受けても、それは一つの過程として、それは当然の事と思います。

 一生懸命に力を尽くせば、天地に恥じることなく、心を尽くせば、天地と通じ合うことができます。もし、天心がなければ天下の仕事をなす事ができません。天地自然界の中に立って、事を行うには全て自然に従うべきです。それでこそ円満に達することができます。

 成就できたのはあなたが、心を使ったからです。たくさんの機会があっても、心を使わなければ成長しません。何事も心を使ってこそ、その性を得ることができます。

 あなた達は皆、天命を負っています。その天命には大小はなく、使命にも大小はありません。只あなたが行うか、行わないかということです。

 今日、何を成功したかを問いません。心を使えばそれは成功です。成功の大小を問わず、成す事の大小をも問わず、只、真心で、誠心誠意で成せばそれは大きな事です。

 上天が欲しいのは あなたの努力です。成功ではありません。成功には永久はありません。欲しいのは日常の努力です。日常の努力こそ最も尊いのです。

 天命は何ですか。皆さんの身の上には、天命があります。天命、これを性と言い、性に従うことを道と言い、道を修める、これを教と言います。この命はまた使命と言い、使命は皆さんの本分です。皆さんは誰でも自分の責任があります。

 人がいやがることをあえて自分が行う、これこそ真修練と言います。きれいなことだけを選んで行うことが、愿を終らせることではありません。

 佛壇へ来たら、事の大小を問わず、すべてが為すべきことです。上天はあなたの本心を見ています。あなたの為すことの大小をみるのではありません。人のしたくないこと、例えば掃除、便所掃除などを為すべきで、やりやすいことを争って行っても、それは功徳にはなりません。

 人間世界のことで是非はありません。只あなたがスムーズに為し通すことができれば、正しいのです。只、天命に従えば何事もじょうずに対応することができます。
 
 中庸を行うことは難しいですか?道を務めるときに中庸は必要ですか?すべては自分の心によります。自分はいつでも良心に従がって、行っていますか?このことをいつでも自分に質問して、何事も自分に求めるのです。師は皆さんに「求めなくてもよい」と話しました。それは、外に求めなくてよいと言っているのです。あなた自身に求めるのです。

  あなた達が叩首する時に、よく前賢の足跡を考えてください。彼らの精神は、あなた達を呼び醒します。あなた達も今後、前賢のようになれます。あなたの今の行いが大切です。今の連続が足跡となって前賢となることができるのです。道を務める方法は一つではありません。衆生の必要によって、変化させていきます。

 あなたがどんな人材であるかを認識しましたか、あなたはどんな仕事ができますか。誰でも、道場においては、相応したポジションで為すことができます。それを争ってはいけません。また、比較する心、人と計り比べる心、見分ける心、人に反感の心を持つのはいけません。

 あなた達は人に対して理を持って導き、決して道に入ったからといって、身体健康で長く平安を保つことができると語ってはいけません。又師に代わってそんなに多く重荷を背負い、円満に行かず、道を害する事はいけませんよ。

 あなたが誰かを背負えると、また師の代わりに誰かを背負えると簡単に約束してはいけません。自分にその能力と自信があるならば、始めてそれを約束してください。いわゆる「人に借金あれば返すのは簡単ですが、人に命の負目がありましたら、返すのは難しい。」おのおのが、持って生まれた運命はみな異なり、あなたがそれを背負うことができてこそ、約束できるでしょう。さもなければ口に出すことは避けなさい。(このページのトップに戻る)

 


歴練試練篇(試練について)


 上天から受ける試練は、前回、自分が円満にできなかった試練です。上天が、再び同じ試練を与えてくださる事に感謝すべきです。父母の口調が厳しかったら、それに感謝すべきです。それは両親が私達の成長を願うからです。会社で、上司があなたに不満があり、文句をつけてもくじけることなく、それに感謝すべきです。それはあなたを成功に導き、あなたの心を磨いているのです。それをしっかりと覚えなさい。常に感謝の心を抱いて事にあたれば、人の潜在能力が非常に大きい事が、理解できます。なぜならば、潜在能力は「あなたは、すべてのものを受け入れ、一歩一歩向上していく」と教えてくれるからです。ゆえに、いつでもこの感謝の心を持ってすべての事を受け入れて、身の回りの一瞬一瞬を大切にしてください。

 魔には二つあり、一つは外の魔、もう一つは心の魔です。外の魔は比較的、退治しやすいですが、心の魔はそう簡単ではありません。心の魔はあなたの心を乱します。何事に対しても、判断力がなくなって、理性を失い、真のものと仮のものを見分けることができません。そして、あなたを暗闇におとし、光明を失わせます。それでは、いかに退治すればよいでしょうか。まずは心を静め、真の智慧を持って心の魔を降伏させることです。その時には、自性佛が現れます。真の霊性が主人となれば、外の魔はみな、あなたの指揮に従います。真の工夫を凝らすべきで、流れに身を委ねてはいけません。執着をおろせば、立ちどころに成佛します。

 道を修めるときには、逆境や不本意な障害があります。これは個人の因縁が異なりますが、ある人は道を修めるのに障害があり、内心に魔の障害がとても深い、師はあなた達が辛抱して、よくよく天恩に感謝し、懺悔することを望んでいます。人には沢山の無明(不明、無知)の業力(因縁)がありますから、懺悔の心を持って罪を贖うことが必要です。毎日朝起きた時、無明の業力に済みませんと言いなさい。ひとつの感謝の心と懺悔の心を持って道を修めれば、より順調にいきます。

 上天が天災を現すのは、人が原因です。天を恨まず、人を咎めず、決して「上天がどうしてこんなことをするのか」と非難してはいけません。この時には一つの力を出して現状を変えるべきです。怒りの気を平和の気に化すことです。ある時は、上天があなたを作り育てるために、あなたに少しの試練を与え、磨きます。その時、あなたは必ず心からその恩に感謝すべきです。苦難を経てこそ、智慧を高めることができます。

 どんな荒波を受けても、どんな試練を受けても、只信心を固めていれば、自然と暗黒の時がすぎて、晴れ晴れとした時を迎えることができます。努力して上に向かって、力を尽くせば、自然と成果が生まれます。

 弟子たちよ、挫折があったとき、心はとても不安定で、気持ちが高ぶっていたりします。その悪い気を人に向けてはいけません。自分自身で修めていけば、挫折はあなたの糧になります。上天は一番公正で無私です。あなたが選んだ道の結果を、今すぐ見ることはできません。誰でもみな、未知にむかって、それぞれの選択をします。そして徐々に道が開けていきます。五年、そして十年と、皆さんの成長は違います。もし、上天が前もってあなた方に、それぞれの歩み方を教えたら、公平ですか。それは公平とはいえません。スタートの時点では、みな同じですが、肉体を持っている現在は、それぞれ違っています。ですから、それぞれが、道を選択する時は十分注意して、慎み深く、一旦決めたら二度と後悔しないでください。たとえ困難が沢山あっても、負けないで正々堂々と向き合って頑張ってください。そうすると、あなたは、不安のない一生を送ることができます。

 困難に遭った時、まず焦らず、慌てないことです。人は誰でも盲点があり、人生は次から次へと絶え間ない選択です。よくよく考えて、目標をしっかり持ち、必ずその使命に恥じないようにするべきです。

 人生において、ある人はうまくいき、ある人はうまくいかない、その分岐点は、心念の差にあるのです。智慧のある人は、上天のご慈悲で自分に試練を下して、成長させてくれていると考えます。それは智慧の試練です。

 たとえ、どんな事を人にあげても皆無為でなければいけません。どのような苦しみを受けても、災いをうけても、更に人に嫌われても決して初心を変えてはいけません。それは自分を磨いている事で、あなたに真心あるか否かを試練しているのです。考えましょう。この天地において、たとえ、過去の聖人神佛でも、もしも試練を乗越えることができなかったら、再び神佛になる事ができません。試練がなければ真心を試すことができません。ですから、心の準備が必要です。自分に挑戦し、自分を超越すべきです。

 時代とともに世の風潮が変わっているように、人の心も変わっています。自分の心念を貫く事ができなくなりかねません。このように神佛が来ることが、もしなかったら、果して、幾人この場に残っていますか。

 これから社会の変動によって、神佛が来なかったり、また神佛が来ないという噂で心が動揺しないようにしてください。

 もしこの試練にパスする事ができれば前途は明るくなります。困難にあえば上天、神様のご慈悲を求める外に、又あなた自身の真心に頼るべきです。あなた自身には、様々な困難を突破できる力が必ずあります。

 道を修めるには試練に耐えねばなりません。常に反省し、他人のせいにせず、自ら節制すべきです。積極的に前進するときには、忠義を尽くすことを考え、一歩下がって自分の過ちを修正することを心がけるべきです。

  人には誰でも因縁があり、あなた達の意志とは関係なく、時期が来れば返さなければならない負債があります。弟子達に望む事、それは、弟子達がどんな事にあっても、喜んで受け入れる事です。これがあなた自身だからです。これを受け入れなければ、あなたは前進する事はできません。精進する事もできません。

 どんな困難をにあっても心から受け入れて、誠心誠意で対応していけば、すべては順調に行きます。

 時には、何かに束縛されたほうが、成長が望めます。ですから、人が成長する過程で、必ずしも、自分の意のままに生きることはできません。たまに少しの波があっても、または逆境があってもそれは当たり前のことです。

 ただ、弟子達に修行する心があれば上天は自然に皆様を助け、チャンスを与えます。たとえ、困難にあっても、頭をうなだれずに、上を向いて、胸を張って,勇敢に前進すれば、必ず解決の方法はあります。決して、自分は一人ぼっちだと思い、誰も私の気持ちを知らない、と言ってはいけません。ただあなたに道を修める心さえあれば、至るところにあなたの仲間はいます。

 あなたが困難にあった時、最も辛い時、あなたがそれを乗り越えたならば、自然と光明を見ることができます。もし、あなたが乗り越える努力を怠れば、あなたは闇に埋没されます。

 全てのものは、因縁の集まりです。あなたがそれをさけようとすればするほど、そのものはあなたに向かってきます。困難があなたを襲った時、あなたがそれに対面し、それを背負えば、突破の道は開かれます。もしあなたがそれを避けようとすればするほど、その困難や挫折は、より大きくなってあなたを襲います。ですから、あなた達は自分の心を開いて、すべてを迎え入れることです。

 良い結果を望むには、困難があるのは当たり前です。すべては磨かなければ立派にならず、人は磨けば器になり、ピカピカと輝きます。今後、逆境に合ったときには、あえてその恩に感謝すべきで、順調なときには、その恩に報うべきです。

 龍門を飛び越えなければ、天に登ることができません(龍と戦うことはとても大変なことです。それを乗越えないといけないという例え)。道を修めることは様々な挫折を突破し、様々な困難を乗り越えてこそ成道できます。ですから、続ける心、忍耐の心、終始一貫が必要です。

 どうして同じように道を修めているのに、他人は困難に出会わず、自分だけ、困難に出会うと考えるのですか。その時は自分で反省すべきです。実は上天からあなたに試練を与えているのではなく、それは自分自身の心の迷いです。それは自分が作った試練です。

 道を修めるには、徹底的に磨き、順序を追って、事を運ぶように磨き、着実に磨き、あなたにあってはいけない物を磨き落し、あなたのすべての尖った角を磨き落します。人と人の間には尖った角があります。その尖った角を磨き落したとき、あなたはその角の存在を知るでしょう。磨いて、磨いて、あなたの心がもう灰のようにくすぶる事がなくなった時、素直に何事も受け入れることができます。もう成功ですね。

 人は逆境の中において、一番苦しいのですが、一番安全ともいえます。何故かと言うと、その時はあなたが注意を高め、精神統一の状態にいるからです。もし、あなたが快適で、安全ならば往々にして油断します。ですから、師は弟子達が毎日、戦々兢々の心を持つことを望みます。それなら問題を作ることはありません。

 苦しみを受け、人にしかられても構いません。それは罪業を消滅する入り口です。魔考(試練)の中の迷いは真理を頼りとし、智慧で打ち破るためにあるのです。

 困難にあった時、如何にして解決しますか。もしも、イライラしていたら事情を解決することができますか。先ず、心を静かにして、この事態に対し、如何に対応するか、如何に解決に導いていくか。心が落ち着いていれば、沢山の智慧が自然と生じてきます。智慧はお金では得られないものです。智慧は逆境の中にておいて、はじめて得られるのです。

 あなたが苦しみを受け、逆境にいる時は、あなたの心が平常であれば、苦しみは感じません。

  あなた達が、今後、困難や挫折にあったときは、いつでも道場に戻ってくることを希望しています。道場に戻って来れば、あなた達を導く人がたくさんいます。あなたの心の結び目が開けられない時、自分で自分を縛り、自分で作った囲いの虜にならない様に気をつけるべきです。自我の虜になるものは、愚かなことです。あなた達が少しでも努力して、己の心を打ち開き、また周りの人の経験も参考にしてください。自分が身をもって探るよりも、他人が歩んで来た道を、参考にしたほうがよいはずです。一歩下がって、自分の心を定め、定まりの中に静けさを求め、安らぎを求めて、自分の心が安らかになったなら、心の中をろ過して、いらない物を濾していきます。そうすると自然と道理を理解し、智慧が生まれ、あなたがどの方向に歩くかがわかります。

 挫折にあったとき、よくない心を持った時、まず反省し、一歩退いてまた考えましょう。もしも、よくない考えに執着していたら、それは、私達の心の中の汚い気です。その心はまるで環境の濁気に汚染されているようです。ですから、環境保護は先ず自分の心を整理することからはじめます。嫉妬した時、それは心が執着したゆえです。他人のような名利が得られず、達成できない時、もしも、ずっと執着すれば、嫉妬心はもっとひどくなります。それより一歩退いて、嫉妬の心を、相手をほめたたえる心に変え、積極的にその人の真似をするように心がければ、必ずよくなります。それも環境保護の一種です。リサイクル資源になります。嫉妬心は即ち捨てる物です。心を変える事は精進にほかなりません。その時、心は突然、明朗になります。これは、大きな一歩の前進であり、精進の上の精進ができます。

 志を立てるには、奮闘の志が必要です。すべての物欲と戦うのです。それに負かされてはいけません。自分の心の中で、理性と欲望が戦ったとき、欲望を乗り越えるように頑張ってください。(このページのトップに戻る)

 

知命立命篇(天命を知り、現すことについて)


 何か、自分で決められないとき、仙佛様にお願いする時があると思います。しかし、あなた方には、世の中のほとんどのことを変える力を持っています。人間の潜在能力は、折々現れますが、思いどおりに使う人は、実に少ないです。何事も、人事を尽して天命を待つことです。能力を出し切ったら、それ以上は、上天に任せれば良いのです。菩提心を起したときから、必ず上天は感動し、すべては変わり、不可能も可能に変えることが出来るのです。

 人には運勢があります。生活は五行(易経で金木水火土のこと)で成り立ち、その中に運勢があります。この運勢に束縛されているのです。もし、運勢を変えたかったら、あなたの修行、あなたの心を改めることによって、変えることができます。自分を束縛しないで、常に感謝の気持と懺悔の心で、徐々にあなたの運命を変えることが出来ます。

 この喜びの心をずっと保ちなさい。もし、その喜びの心を持っていれば、あなたの運勢、運の道は開かれます。もし、運が向いていないときや良くない状態のとき、喜びの心、法喜(教えを聴いて感銘を受ける)の心さえ持っていれば、自然に、良いものごとが私達の回りに発生します。今日、あなたが、おみくじを引きに行くのは、自分自身で決められないか、自信のない時ではないですか。しかし、おみくじを引いたり、神様に聞いたりする事は、あなたにただひとつの意見を与えることに過ぎません。どのように対処していくか、それはやはりあなた自身にかかっているのです。

 心と力を尽くせば、上天は自然にチャンスを与えてくれます。求めなくてもチャンスをくれます。もしも、地に足をしっかりとつけず、真心がなければ、いくら求めても無駄です、上天は公平です。

 あなた達は、常に祈っているようですね。しかし、その祈りが報われないと、失望を感じますか。そのとき、あなたが求め過ぎてはいないか考えてください。もし、あなたの運命がそのように決められているのなら、まず、あなたは、それを認めてこそ、運命を変えることが出来ます。あなた達は、まず両手を合わせて、心を落ち着け、誠心敬意で、自分の智慧が増すように、円満な智慧が表に出るように上天にお祈りをしなさい。更にあなた達の道がもっと平穏順調に育つように、あなた達が自分のために福を招き、福を大切にし、満足を知り、道を穏やかに順調に歩む事が出来るように祈りなさい。

 重要なことは、前賢たちが末永く、その徳性の光をあなた達の心にとどめ、あなた達を導き、智慧の光がもっと大きく広がるように祈るのです。自分の心が本当に落ち着くように祈り、あなたがもっと誠心誠意になれるように祈り、自分に雑念がないように、無念、無想、無欲になれるように祈り、自分の心中が公心ただ一つで、自分の良心を啓発し、自分の良心を明らかに現すよう祈るのです。

 福の中にいても、それを実感出来ないのを、福を欠くと言います。福の中にいて、それを実感出来れば、必ず徐々に浸透して、本当に幸福になれるのです。

 人の行為の表われ方は、その個人の運命に大きく関係します、いい運命がほしかったら、まず自分の行為を正さなければなりません。

 実は、上天は誰にでも霊性(佛性)を与えています。念佛、座禅、念唱は、すべて自性佛を離れないためのものです。その自性佛こそ、上天があなた達に与えた性命です。人として、自我の領域にとらわれずに、自我の小さな天地から歩み出せる時こそ、大の天地と呼応できる時です。

 ですから、『知命、立命、安命、了命』は天命を知り、天命を立つ(天命を自らにあらわす)、天命を安ずる、天命を終わらせなければなりません。『安』は不変の真理、ものごとをどこに安定させるかによって、あなたの心がそこに安定するのです。しかし、あなたの心は安定しがたく、あなたの自性佛も見つかりにくいのです。形は容易に変化し、常なるものはありません。いつか壊される日がきます。しかし、真理は常に不変です。ですから、あなたが自我から跳び出し、乗り越えた時に、本当に安命を理解できるでしょう。なぜ天命を『終わらせる』(=了命)のですか。実は、『天命を終わらせる』とは終止ではありません。それを完成、完了と見なしたら、聖神仙佛になることが出来ないからです。聖賢の本を勉強するのなら、それを見習って聖賢のことをなすべきです。基本から、徐々に進みます、さとうきびを逆さに食べるように(だんだんと甘くなっていく例え)、徐々によい境界にたどり着くのです。よって『知命、立命、安命、了命』を実践するには努力しなければなりません。今日、あなたが人と人の間の道理を守ったならば、天の心と通じることができます。主観的な立場を客観的にかえられれば、道理は円満である事を知ります。道理はあらゆるところに有りますので、私達の心も各方向まで気を配らなければならないのです。

 誰でも自分の因果は、自分で受けなければなりません。しかし、どんな因果であるかを追求する必要はないのです。ただ心からそれを受け入れ、恩に感じ、懺悔をし、福を大切にすれば、それでよいのです。その結果、悪い果を完了し、よい果に結びつくのです。

 何かを求めるなら、必ず人に与えなければなりません。誰でも、円満、健康、平安でありたいなら、必ず人に与えなければならないのです。

 今日あなたが自分の運命が如何なるものかを知ることが出来ましたら、早くあなたの運命を掌握しなければなりません。すべては、あなたの手のひらの上にあり、成功も失敗もあなたの掌中にあり、あなたが、やるかやらないかだけのことです。どうして、手相や人相なんかを見てもらうのですか。運命を見てもらうのですか。重要なのは、あなたの心です。心が少しでも変われば、その時はもうすでに楽園にいるようです。その時こそ、あなたがほしがるすべてですね。

 あなたが、すべてを大切にすることを知れば、必ず喜びの気持ちを感じるはずです。何故なら、あなたの回りの人達も、皆あなたを大切にしているからです。あなた達は、仙佛が願いをかなえてくれる、ということは、仙佛が因縁を動かしくれたと思うでしょう。本当に動いているのは何であるか、考えたことありますか。もし、道を修めるときに、すべてが順調に出来るのなら、あなた達はどんな道を修めることができますか。あなた達はまだ平凡な人間です。乗り越えるべきものは、必ず乗り越えなければなりません。来るべきものは、やはり来て、去るべきものはやはり去ります。多分あなたの心の中では素直に捨てることも、受け入れることも出来ないかもしれません。しかし、考えてください、拒んでいたらどうなるでしょう。受け入れなかったらどのようにすればよいでしょう。

 たくさんのことが絶望的で、助けを求めても、叶えなかったとき、あなたは上天に助けを求めますが、決して、上天が返事をしなかったと思わないでください。実は、あなたの回りの人々があなたに返事を与えてくださっています。
人が、もしも、責任を担う決心があれば、上天はその人に任務を与えます。人を憎まず、天を怨まなければ、上天はあなたにより多くの任務を与えます。あなたに不満がある時、上天はどうやってこの福を与えるのですか。福をあなたに与えても、そこであなたが、文句を言ったならば、天は、間違ったところへ福を送ったと感じて、福の送り先を修正します。途中が渋滞している時ならば、待てば福は届きますが、あなた自らが福を拒んでいたら、いつまでたっても届くことはありません。あなたの悪い性格が、福を拒んでいるのですから、福の行き先は当然変わってしまうのです。

 どうしたら、平安になれるのですか。外に向かって尋ねるのか、或いは内に向かって求めるのですか。まず、あなたの心を平静にする事です。心が平静になったら、あなたの身も自然に落ち着きます。私欲がなければ、自然に心は安静するのです。

 現在、何故、天災や人災がこんなに多いのでしょうか。それは、現在の人間の心が変わりつつあるからです。人の心が悪く変われば、上天は災難を下すのです。ですから、あなた達は心を修めるべきで、心をきちんと修めれば、上天はもう災難をあなたに下さないはずです。あなたが道を修めれば、あなたの家族は平安でいられるのです。
もしも、あなたの心が人と争わなければ、何事も開いた心で見ることが出来、煩悩なく楽しく平安に過ごせます。
平安を求めるなら、まず自分に求めなさい。人に求めるより自分に求めるべきです。人に求め、それで叶わなかったら、怒り、恨む心が生じ、地獄に落ちる原因を作り出すのです。

 現在は、気が濁っています。あなたたちが、呼吸している空気も濁っています。どこでも濁っているのです。それらから逃れたかったら、あなたの心を安定させることです。

 自分の心を少しずつ修正していけば、濁った世に出会っても、乱れないようになるでしょう。心が平和であればこそ、平安になれます。危険に出会っても、柔軟に対応が出来るのです。

 凶に合っても、吉に変えられるのは、道を修めることのよいところです。生命がある限り、はやくチャンスをつかまえ、よい運勢を作り育てなさい。

 功徳をたくさん積み重ねなさい、功徳を積み重ねたら、災難を消すことが出来ます。口徳を守りなさい。人を批判することは自分に災害を招くのと同じであることを忘れないでください。

『劫』とは何ですか。『劫』は、あなたが(心の中で)乗り越えるために存在します。素直に『劫』を受け入れれば、それを越すことが出来、受け入れなければ、もとの位置に取り残され、永遠にこの『劫』の中に身を置き、抜け出すことが出来ないのです。

 もし、自分達だけのために狭いやすらぎを求めたいのなら、衆生のために、たくさんの平安を与えたほうがよいでしょう。そうすれば、あなた自身、ずっと平安になれるのです。

 師はあなた達の生命を守ることはできません。生と死はあなた達の心の中にあります。なぜ、たくさんの人が『劫』から逃げられないのですか。常に心に善をおけば、自然と平和の気が満ちて、自然に仙佛があなたの左右に来て助けます。若し心に悪念、嫉妬の念、邪念を持てば、自然とあなたの気は平和から遠ざかります。ですから、心念の動きはとても大切です。(このページのトップに戻る)

 


広結善縁篇(広く善縁を結ぶことについて)


 人が不円満のときは、手助けをしましょう。それは、己れのよい勉強になり、人助けにもなります。誰でも、おおざっぱには注意が届きますが、ごく微細な所は往々にしておろそかになりがちです。しかし、このような微細な所こそ、他人には、一番気になる所です。たぶん、自分では、あまり大事だと思わないかもしれないが、忘れがちな些細な所で、お互いに距離を作ってしまうのです。物事が円満ではない時に、あなたの手で円満にしましょう。そうすれば、万時円満に果すことができるのです。不平な心で、人に求めたりしてはいけません。求めたら、不満な心や憎みの心が出来てしまうからです。このような不平な心を寛容な心、満足を知る心、許す心、感恩する心に変えてゆきましょう。そうすれば、人間関係は良好になり、人生の道程に自分の心を知る友ができるはずです。

 他人を推測することは、己れの心を傷つけているのと同じです。なぜなら、悪い心で人の是と非を論じてしまうから。物事は自分の目で、その場において見ていなければ、真実かどうか分からないものです。自分の目で確かめても、真実であるかどうかわからないものです。ですから、形ある物に、こだわらないように気をつけましょう。

 だれに対しても尊敬の心をもって接しなくてはなりません。よい人にでも悪い人でも、尊敬すべきです。

 場合によって、立場や役割をチェンジし、人の立場になって、人の心になって考えれば、すぐに自分の心境を変えることができます。たとえ、今、どのような苦しい立場に追い込まれても、人との争いが起こっても、すべて、自分で解決することができます。お互いに立場をかえれば、相手が何を思っているのか、求めているのかがわかってきます。

 誰にでも、やさしく思いやりの心を持ちましょう。そうすれば、天の心と合一して、物事を完成させることが出来ます。自から周りの人や身内の人のことをわかってあげましょう。あなたが求めている心は、思いやりの心、善意の心、悪意のない心ですから、他人のことを思っている時は、悪い方向ではなく、よい所を考えましょう。我々の心によって、円満になり、角が取れれば、人を傷つけることはありません。これは平凡なことではありません。自分が円満になれば、人の利を求めることはなく、また、人を傷つけることもなくなるでしょう。

 皆様は人に好かれ、人気者になりたいと望むはずですね。それならば、心を開き、毎日、愉快な気持ちで道を修め、道を務め、そして、人を助け、人を渡し、神佛と接触することです。神佛に接することは、壇まで連れて来るだけでは不十分です。理天まで連れて行くのです。このような人助けをする時に、助けられる人は喜び、必ずあなたを好きになり、受け入れるでしょう。

 誰でも団体生活のなかで生きていかなければなりません。もしも、ほかの人と協力しなければ、何事も成就させることは難しいでしょう。とくに、修道、弁道は、一人一人の心を一つにして、団結してこそ、大きな成就が出来ます。団結するためには、自我を除くことです。あまり自分の意見に執着していると、道場に入り難くなってしまいます。道場だけではなく、社会においても、他人の助けがなくては生きてはいけません。いつかは、だれかの助けが必要かも知れません。どんなことでも、慈悲な心は、場所も相手も選ばずに、心から、その人を助ければ、その場でもうあなたは菩薩であり、神佛です。たくさん人に与え、求める事は少なく、人を多く褒め、批判は少なく、人を多く許し、少なく責め、人の恩に多く感謝し、憎みは少なくするべきです。

 身にかかわるすべての縁をいかに円満にさせるのか。この場合、心で縁を円満にするべきです。因縁というものは、実際には縁があって出逢うのですが、相結び合う事は本当に容易ではありません。今、所有する物を大切に思わなければ、いつの日か、ひとつの縁を失った時、憎んでも、後悔しても、手遅れになってしまいます。心にこの「後悔」の2文字が絶対に残らないようにしなさい。なぜならば、取り返せるものは後悔する必要がないかわりに、取り返せないものは、いくら後悔しても、無駄だからです。如何にすれば、後悔せずに達する事が出来ますか。それには現在を掌握し、すべての縁を大切にすることです。いわゆる「縁を惜しむ」事です。弟子達が皆 縁を大切にするだけではなく、すべての縁を円満にすることを望み、常に円満を求め、この「円、縁」2文字を心に入れ、実際に行動を伴ってほしいです。心残りをなくすために、一番効く薬、それは縁を円満にさせることです。

 愛というのは真心の気持ちをもち、なおかつ、中道を守ります。このような愛は、ちょうどよいところです。もっとも重要なのは、愛を持って付き合うこと、そして、その愛を大切にすることです。

 人を認め、信じることも、一つの布施であり、形ある物をあげるだけが布施ではありません。愛情のこもった眼差しも、言葉でその人への関心を伝えることも、布施と言えます。手を差し延べ、人を助けることも、もちろん、すごく立派な布施です。

 誰でも心の中に愛の心を持つことが、原動力となります。この愛情の力を発揮した時こそ、神佛であり菩薩であります。師は弟子たちには、愛情たっぷりで、やさしい心を持ってほしい、即ち大愛の心です。人のつらい面を見て、適切なタイミングで手助けをしたり、励ましたり、たとえ、微笑み一つでも、彼らの一つの支えとなるはずです。

 観音菩薩が、いつでも心に留めているのは、衆生のことです。故に、世の中の衆生たちは皆、誠心誠意で拝むのです。皆に拝んでもらうのは、観音菩薩の本意ではありません。己れを犠牲にして、皆のために捧げたこの気持ちを、衆生がしっかりと受け止め、感じ取り、自然によい方向へ向かうように、為してあげたいのです。

  今日、自分自身のことばかりを考え、知らないうちに、徐々に、周りの人の気持ちを考えなくなり、皆遠ざかってしまいます。そうなると、生きていても幸せを感じることはできませんし、あなたと一緒にいても、気まずくなってしまう。人縁は即ち佛縁であるのに、衆生を渡すのに、衆生があなたを見て嫌ってしまえば、あなたは衆生にどのような話が出来ますか。

 環境のせいにして文句を言ってはいけません。よくよく自分自身を完成させ、この難関を乗り越えたなら、それは、あなたの財産になります。いわゆる、憎みというものは、ほとんど自分の意のままにならない人間関係によるものです。人との摩擦があったときに、まず、自分が原因をつくって、摩擦を発生させていることを理解するべきです。自信が持てず、自分のことを認めないと、自分を軽蔑するようになり、周りも同じように自分のことを軽蔑しているのだと、思い込んでしまう。それ故、道を修めるというのは、この心を修めるのです。つまり、広い心を修めるのです。

 君子は人を受け入れる器を持っています。人に許してもらうのではありません。故に、あえて「恭、ェ、信、敏、恵」のような大きい徳性を培う必要があるのです。

 人と一緒にいる時には、何を堅持すべきでしょうか。それは、お互いを受け入れること、お互いを許し合うこと。お互いが広い心で接し合うことです。

 悪い考えが出て来る時、その思いをよい方向に導いてください。考えを少しかえれば、善になります。人と争いになる時、「友達は、本当のことを話してくれている。私を直すチャンスを与えてくれた。」とそう考えましょう。たとえ、意地悪されたとしても、がっかりせずに、その人に借りがあった、と考えを変えればよいでしょう。善と悪は、一念の間に決められるのです。

 誰でも、見習うべき人物であり、人材です。師には、賢くない弟子はいません。自信を持って、勇敢に第一歩を踏み出しましょう。衆生を済度するのには、勇気がいりますから。

 己れに自信がなければ、道に対して信心がないのと同じです。道に自信がなければ、同じように、己れに自信がありません。ですから、馬に鞭を打って、走らせるように、自分のスピードをあげましょう。衆生を済度する時、面の皮が厚くならないと済度し難いかもしれません。広く衆生を済度できるように、あなたに済公製のクリームをプレゼントします。

 誰でも学ぶべき事があります。人を見る時、その人の短所を見ないで、長所を見るべきです。自分のよしあしで人を見ないでください。それは、その人に対して不公平ですよ。

 人を導くことができなくても、怨む心を起こさず、また、その人に佛縁がないと言わないでください。心の中に分別心を起こしてはいけません。これは、とても大事なことです。

 人は誰でもプライドがあります。そして、己れの個性及び原則 (ルール)を持っています。しかし、共同生活を営むには、我をおさえて、譲り合うべきです。

 人の過ちを受け入れるとは、その人の非を許すのではありません。人の侮辱をたえ忍ぶのは、人の権力を恐れるのではありません。人の過失を告げるのは、人の汚れ (罪悪)をあばくのではありません。人の悪を隠すのは、その人が悪事を働くのを助けるのではありません。人助けをするのは、その人を怠け者にするのではありません。人に「執着を下ろしなさい。」というアドバイスするのは、その人にあきらめるように勧めるのではありません。

 もしも、お互いを励ましあい、一緒に成長しようという心を持たずに、ただ、お互いが辛い話をし、他人の是非を言い合うのならば、確かに人間界は苦海といえるでしょう。しかし、皆が喜びの心を現せば、この人間界は、どこも極楽になるでしょう。

 常に他人を認めて、励ましてあげることは、己れのことを励ますのと同じです。人のことを否定することは、己れに自信がないことの証明です。それは、他人のことばかりを見て、本当の自分(佛性)のことを見ていないからです。
喜びを持って、衆生を済度しましょう。幸せを感じてもらうのには、まず己れが、幸せになる方法をわかってから、始まるのです。

 人間の本性がわかってから、佛性がわかるのです。故に、人と付き合う時に、とりあえず、己れの存在を忘れ、己れを調整するべきです。もし、ひたすらに自分の思いどおりを人に求めていれば、とても、長く付き合っていけないはずです。まず、己れをよく修めてから、人によい影響を与えられるのです。

 ある時、人を見て、なんとなく、心配事でもあるような感じがします。それは、その人の霊性 (魂)が教えてくれたのです。助けを求めようとしていたからです。もしも、あなたが、人にやさしい思いやりで接していなければ、しばらく、そのひとは、あなたの本心を悟らなくても、いつか、あなたの魂がその悪気をその人に送り出して、その人がキャッチして、ばれてしまうものです。今日、己れをだませても、他人もだませると思い込んではいけません。人は皆、己れに小世界を持ち、小世界を円満にしてこそ、後に、大きな世界を円満にさせる事が出来ます。

 己れを助けると共に、人も助けましょう。己れを修めると共に、他人を導きましょう。己れを正している時、即ち他人も導いています。他人を導いている時は自分を正しています。

 師は皆に神通力を教えましょう。それには、他人にもっと関心を持つことです。他人を思いやる時、自然とその人がどのようなものが必要なのか、また、心の中で何を考えているのかを聞かなくても、わかるようになるでしょう。これが現代の神通力というものです。もし、弟子たち、皆、この技を使いこなせることができれば、世界平和に至りますよ。他人の立場をよく理解し、考えてあげましょう。

 すぐれた人にはもっと偉い人がいます。己れのことをあまり自慢し、偉く思ってはいけません。己れのことを平凡な人だと思い、他人を偉く見て、尊敬し、他人を神佛の様に尊敬すれば、悩みごとがなくなります。同じように、友達を神佛のように尊敬すれば、悩むことはないでしょう。

 人と人との間は摩擦が起きるものです。しかし、お互いに磨き合えば合うほど、親しくなるものです。墨を擦る道具と同じように学びなさい。この道具は、人に使われても、腹をたてることはなく、使われても嫌とは思いません。何事を拒まないで、何でも引き受けるのです。

 人と付き合うとき、いつでも、お互い疑心を持ち、敵意を作ってしまう。お互いの事情をよく理解できていなくて、疑心がでてきたら、お互いの偏見におちいり、多く隔たりが生まれます。隔たりが多いほど、この社会は安定しません。師が言うのは、縁を培ってください。自分のまわりの縁を助力に化し、自分の力を生かすことです。決して、自分を軽く思わず、潜在能力を信じて、この能力を発揮してベストを尽くせば、必ず、上天は、よい結果を与えるのです。

 愉快を与えることを「慈」と言い、苦しみを取り除くことを「悲」と言います。この二つによって、どのようなボランティアをするのでしょうか。まず、己れがよい模範となり、真の幸せを感じてこそ、その幸せを人に与えられるのであり、人の苦しみを分かってこそ、人の苦しみを解決する事が出来ます。

 まず、己れに要求してから、人に要求しなさい。まず、己れをどこまで修めているのかをチェックしてから、他人をチェックしなさい。故に、対立心があるということは、いつも己れの心で相手のことを先に判断しているからで、差別心は己れが苦しむ根源となります。

 ピエロを演じられたら、あなたはもう成功したといえます。若しあなたが「私」を下ろしてもいいと思った時にはすでに成功です。以後は、たくさん人々を済度することができます。

 神佛はなぜ、成佛できますか。それは神佛があなたを他人と考えずに、自分と見なすからです。もし、他人のことを自分のことと同じように思えば、あなたは彼であり、責めるに忍びなくなり、嫌うこともないでしょう。人の悪いところをあえて気にすることもなく、それはあなたがもう彼をすでに受け入れたからです。

 もし、心が城壁のように、風も通さず、永遠に外の世界が見えなかったら、それは、角が多すぎる証拠です。誰も居ない一人ぼっちの時には、気がつきませんが、人と付き合えば、一人一人が、角を多く持ち、お互いを傷つけ合って怪我をさせているのです。憎み、悩み、怒りなどの八苦がこのように生まれて来るのです。故に、人がいつもこの苦海において、幸せでない理由は、角が多すぎるからです。どうすれば、取り除けられるのか。それは「磨く」ということです。何を使って磨くのか。それは人、物、事情、各方面から磨き、経験を積むことです。逆境にいる時、磨けば磨くほど円満にできるのです。苦労をすれば、その苦労は財産になります。苦境にいれば、己れを反省し、すぐに人のせいにしなければ、成長できるのです。

 他人に会って、この人は嫌いだから相手にしない、と考えるのとは、やめましょう。相手が、聖人でも、敵でも、愛情を持ち、好きになりましょう。敵を愛してこそ、敵に勝てるのです。

 自分のことさえ分かれば、他人はあなたの親しい友です。もし、己れのことをよくわからなかったら、いつも他人を疑います。「己れを知れば相手を知る」「百戦百勝」という境界に至ることができません。何をなすにも、まず自分を省み、理解してから、他人を思いやる気持ちになるのです。

 誠心誠意、真心を持てば、また、いつでもこのような気持ちを持ち続ければ、人との間に隔たりがなくなるでしょう。
 
 他人を包み込むこと(包容)と、人を許すことを学びなさい。他人の過ちは、あなたの度量があるかどうかを試すチャンスであります。

 周りの人が手助けをしてくれる時には、素直な気持ちで受け入れましょう。人を助ける時は、勇気を持って実行すれば、お互いに喜びが感じられるはずです。故に、自分が駄目だと思ったら、相談できる人を探し、話しを聴いてもらいましょう。あまり、我慢せずに、自分の殻に閉じ込もろうとしないでください。このような重圧を一人で抱えることは、大変つらいものです。

 敵に接する時、一番よい方法は微笑みです。相手が、あなたを敵と思っても、好きにさせ、それでもあなたは、相手を敵と思わないで、微笑みましょう。

 情熱を外に出してこそ、力が出てきます。もしも、情熱を外に出さなければ、どのようにして自分を暖め(愛情)、他人を暖めることができるでしょうか。もしも、自分を温める事がなければ、仲間から外れ、捨てられたように感じるでしょう。自分のことさえ大事にしなくて、誰があなたを愛しますか。故に、まず自分を愛し、そして、周りの人を愛しましょう。(このページのトップに戻る)

 


気分管理篇(情緒を管理することについて)


 よく学び、よくお経を唱え、お経の意味がわかれば、自然に心も開いてきます。あまり悩みごとを貯めないようにしなさい。彌勒師祖に学び、心はもっとほがらかに、常に心を開けば、憂い顔が消えるでしょう。人間の運命は顔に出るもので、常に微笑みでいれば、明るく幸せな人生を送ることができるでしょう。

 怒りの気持ちを抑えるには、どうしますか。まず、深呼吸をしましょう。怒っているときは、思わず、他人に八つ当たりしがちで、お互いを傷つける源となります。怒る前に深呼吸をすれば、その怒りが晴れてきます。怒りの気を深呼吸で吸い込みます(こらえるます)。しかし、本当に、頭にきたとき、深呼吸をして息を吸い込むことは難しいです。ですから、今、皆に、吸い込むより易しい、息を吐く勉強を教えましょう。怒りや憎みなどを全部吐き出せば、自身を傷つけることはないし、人に八つ当たりすることもありません。悪い気を吐き出すのはよいことですが、それを人に向けないように吐くには、工夫がいります。少し工夫すれば、気を抑えることができ、平和の気を吐けるようになれるのです。これは、いわゆる、気に耐え、気を吐く工夫といいます。気分が落ち着かなかったり、気分が晴れなかったりする時に、よくこの気に耐える工夫を練習すれば、いつも健康な体を持ち、他人を傷つけることもないでしょう。心をリラックスさせ、自分を肯定し、自分を褒めれば、よくなっていきます。

 足ることを知れば、幸せです。足ることを知らなければ、たくさんの悩みが出てきます。

 自分の思った通りにならなかったときには、どうすればよいでしょう。そのときは、一歩さがって視野を広げてみれば、気が晴れるでしょう。心が落ち着けば、平和になれます。心に欲が少なく静かであれば、道理はどこにあるかが分かり、自然と心清くなり、欲はなくなります。人の欲望を十分に満たすのは難しく、そして、人心の憂いを打ち破る事は更に難しいものです。もしも、心中に憂いがあり、自分自身の力で調整できなかったら、自分をそこない、内心を傷つけたりするものです。この世の中は、とても広く、万象を包み、常に変化しています。其の中に、身を置く皆さんは、心を落ち着けて、気を和いでその変化に対して、臨機応変で対応することです。自分にとって、大きなことを小に化し、そして小事を無に化す事が出来ます。

 幸せな人は所有する物が多いのではなく、人と争う事が少ないのです。それですから度量を大きくして、すべてを包み入れましょう。

 皆、心に恩を感じれば、楽しく生きていけるのです。

 師はあなたたちにもう一つの気功を教えましょう。口を開いて、心から、吐きだしたい気を大きい声で叫び出しましょう。あなた方の怨む気、怒りの気、不平な気など、あなた方の本性を覆い隠している悪い気を、この機会に、すべて叫び、吐き出して、心で感じてください。吐き出したのは、晴れない気であり、この晴れない気をきれいに掃除して、他人にうつさないようにしてください。いかに、掃除するのかは、自分で考えてください。よい効果を得るのには、自分で体得し、味わうのです。

 喜びというのは、すなわち、与えることです。煩惱の根源は、求めることです。

 自分が楽しく生きることも、一種の布施であり、福であります。

 苦を心にかければ、苦しみであり、心から離せば、常に幸せで、且つ人の上に立つ人となる事が出来ます。

 幸せになりたければ、公の心を出しなさい。必ず、幸せな日々を送ることができるはずです。

 よく己れと周りの人を考え、なぜ、幸せではないのか、楽しくなれないのかをよくよく考えれば、自分は幸せになり、楽しくなります。

 本来、万事万物を悟れば、悩みはありません。事情がよく見えなかったり、理解に苦しんだりするのは、あなたの手から執着を離さないからです。ですから、悩むのです。いかに、幸せを手に入れるのか。その方法はあなたが手を離したときに始まるのです。



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