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人生
生命
善と悪
道
天道と宗教
三曹普度(さんそうふど)と三期末劫(さんきまっきょう)
得道と三宝
収円の三佛
まとめ
人生
人間一人一人、皆それぞれの人生がありますが、人生にはどのような意味があるのでしょうか。
人間はなぜこの世に生まれ、何のために苦楽に満ちた人生を生きていかねばならないのでしょうか。
人間誰しもが持つ疑問であり、その真の意味を誰も明確に了解していないでしょう。
何も意識せずに母の胎内よりこの世に生まれ落ち、学校に学び、社会に出て働き、やがて家庭を持ち 老いて死んでいく。 人それぞれの生き方はちがっていても、この筋道は同じです。
人生とは何か、私たちが自分の生命を正しく燃焼し尽くすためには、どうしても研究しなければならない課題です。今まで多くの先賢が追求して未だによくわからないのは、人智を超越した所にその理由があるからではないでしょうか。(戻る)
生命
人生を考えるとき、まず私たちの生命、人間とは何かを考えてみる必要があります。
私たち人間の肉体については構造的、機能的には、かなり詳しくわかってきていますが、不思議で神秘な部分が沢山あります。 それは実に巧妙に自動運転されています。人工的に作れといっても、できないところに肉体の神秘はあります。
それに加えて、心や精神は目に見えないので、より不思議で、つかみにくい。心の実態というものが、単純に脳にあるならば、死体であっても心が存在するはずですが、そんなことはありません。そうなると何をもって死というのか、ということが逆に生命とは何かという問題の回答になりそうです。
世の中には、目に見えるものと見えないものとがありますが、どちらが真で、どちらが虚かということはなく、ただ人間がするしないにかかわらず、見えないものでも存在するものは、あくまで存在しています。
科学万能と言われる今日でも、多くの未知があります。少しずつ解明されていくでしょうが、すべての根本までつきとめていこうとするとき科学は自らの無能をしります。たとえば、物は上から下へ一定の法則で落ちますが、『なぜその一定の法則が存在しなければならないのか』
という問題を考えてみればわかります。それは科学を超越した問題だからです。しかし答えは必ずあるはずです。
見えるもの(肉体)と見えないもの(魂=霊性)実はこの二つの存在が一体となったものが人間なのです。すなわち肉体に霊性が宿って始めて人間になります。さらに肉体を自動車にたとえると、運転手は霊性というわけです。車は運転手によって始めて機能します。人間にとっては霊性は主体であり、肉体は客体であるともいえます。主体である霊性は永遠不滅であり。肉体は必ず滅びます。死とは、車(肉体)から運転手(霊性)が降りた状態を言います。肉体は死んでも霊性は生き続けます。ではその霊性は次にはどこへ行くのでしょうか。
人間がこの世に生きている間の行為は、全て善と悪のどちらかに区別されます。そして「オギャー」と生まれてから死ぬまでに為した善と悪の多少で霊性の次に行く先が決まります。仏教で言うところの六道(気天道、人間道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のどこかにおもむくのが普通です。
このように、この世で為した善悪の大きさで来世が決まるからこそ、人間は善をなし、一生懸命に生きなくてはならないのです。太く短く、一時の快楽に溺れれば、死後の霊性は苦しい六道に転生しなければなりません。
これを単なる思想としてかたずけずに、実際のこととしてとらえることのできる人は、智慧のある人と言えるでしょう。自分の前世を覚えていないからといって自分の前世はないと断定してはいけないのです。自分が赤ん坊の時の事は覚えていなくても、実際にありました。人間一人一人が皆、顔や声、体型また生まれや育ちが違うこと、また春夏秋冬、一日の循環など大自然の正確の運行を見てから、自分の前世や来世がないと判断するのは『井の中の蛙大海を知らず』のごとく浅はかな断定です。そしてやがて大海(前世、来世)を証明する日が必ずやってきます。
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善と悪
人間の本性は、「善」であるか「悪」であるか。
まず善とは、人のために役立ち人に喜ばれることで、いわば代償を求めずに与えることです。
悪とはその反対で、人の為にならず、嫌われることで、自分の欲望のおもむくままに行動し、いわば奪うことです。人間は大小の差はあれ善悪の両方を持っています。それゆえに悩み苦しんだりします。また自分は善と思っていても相手に悪と思われることもあります。場合によっては、必要悪ということさえ言われますが、人の根本は善意の外にはありません。昔の佛、菩薩、仙人、聖人、君子は最高の善の境地を求めて修行しました。修行の目的は、自分の内から一切の悪(欲)を捨て去り、純善になることです。
観音様やお釈迦様は純善の境地に至ったからこそ、人を救うことに一生を費やし自分の喜びとした為に今日まで人に尊敬され拝まれます。相手のために尽くし切る、その様を見て普通の人は『自分にはできない』とあきらめてしまいます。そして根本の善を忘れ、はなはだしきは人の根本を悪と決め付けるあやまちをおかす人があって、お金を握ったものが人生の勝者であるがごとく財や名誉を貪るようになるのは、実に悲しいことです。
たとえばある人が鉛筆を作って、ひと儲けしようと考えたとしても、その鉛筆が多くの人に喜ばれて使われ、その結果として財を得ることができるのです。つまり「これは人のために役立つ。」という善を成すことを第一義としてはじめて可能になることです。儲ける行為として売るのではなく、人の役に立つものを売る結果として儲かるのです。
ひとは自分の我、欲を離れなければ永久に安らぎを得ることはできません。相手中心の生活こそ、もっとも安心な生活です。「人を思いて我を思わず」自分の家の幼児を思う気持ちを他人の幼児に及ぼし、自分の家の老人を思う気持ちを他の老人に及ぼすようにしなければなりません。
与えれば与えられ、奪えば奪われます。これは因果応報といいます。純善な人の道を歩むことによってこそやがて天への道を歩むことができます。(戻る)
道
道路は千条万条あり、高速道路から、路地まで様々につながって私たちの生活にかかわっています。この道は私たちの肉体のとおる道です。その他に、人の道、男の道、女の道、商いの道、また六道もあれば、天に通じる道もあります。
目に見える見えないにかかわらず道という言葉が使われるわけです。中でも極楽天国(理天)に通じる道(天道)は先天大道とも言い、天が生ずる以前からある光明で平らな大きな道で、この道は純善な霊のみが通ることを許された道です。
昔は、釈迦、観音菩薩、老子、孔子、孟子、達磨、マホメット、キリスト、そのほかごく限られた人にしかこの道を通る事は許されておりませんでした。孔子の論語の中に「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」とありますが、ここに言う道とは、単なる人道とか道徳という意味でなく。先天大道のことです。普通に訳しますと「人の道はこれだ、と師から教えを受けたら、すぐに死んでもいい。これほど人の道を究めることは難しい。」とありますが、師より教えを受けたら実践することが普通です。つまり、この翻訳は不適切といえます。この道が先天大道であればこそ意味が良く解ります。
すなわち「あなたは地上で成すべきことが終わったのでこの光明な大道の在り方を伝えますからその道を通って天に帰りなさい。」というように、師から天道を聞くことができたら、もうこの世に肉体を捨てても思い残すことはないという意味です。霊性という永遠の生命を考えればこそ了解できる言葉です。(戻る)
天道と宗教
孔子は儒教の祖として名を残していますが、儒教を伝えたのではなく、天道の理を伝えたのです。ただ孔子の人柄と、その土地の時代に応じた伝え方をしたのでそれを後の人が儒教と名づけたのです。
仏教、道教にしても同様です。この三教の弟子のうちから一人、その弟子からまた一人というように綿々として天命による道を伝える道脈というものがあり、三教が交代で天命を継承して今日に至っています。
回教(イスラム教)キリスト教の二教主は、一地域、一時代のみを救う役目を担っていましたので、弟子はあっても天命の引継ぎ人はありません。
このように天道は宗教の根本になるもので、ただ人としての善の道を伝えるのではなく、純善無垢になって陰陽会(昼と夜の世界、人間界)を脱して天国(理天)に帰る具体的な道を伝えるものです。
さらに今の宗教は文派を重ね、本来の道を伝えるどころか、それぞれ勝手な解釈を施して、我欲を満たすためのものにまで落ち込んだものも多くあります。教祖の代が移ればもう教えの内容も変わってしまいます。
真の救いを得られるのは、自分に佛や菩薩の心があればこそです。佛や菩薩の心は自分中心の心ではなく、相手中心の心ですから、「お願いする」のでは、およそ筋道が違うのです。
ものには必ず原因があって結果が生じます。今、自分が何らかの悪い状況にあるとすれば、そうなった原因が必ず自分のどこかにあります。佛や菩薩の心にならえば、全て純善ですから、悪因がなく、すなわち悪果がないのです。佛像を拝み、お題目を唱え、お経を読んで救いを求めるのではなく、佛や菩薩の心で自分自身を拝むのが正しいのではないでしょうか。そうすれば、願わずともおのずから救われて病気も消えて、多くの人生の苦から脱することができます。
己を救うのはただ己のみです。
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三曹普度(さんそうふど)と三期末劫(さんきまっきょう)
人に生まれてから死ぬまでの時間、いわば人時がありますが、地球にも同様にいわば天時というものがあります。人は顔を見ればおおよその年齢が解りますが、地球の表面や星を眺めてもその年齢は解りません。ただ循環していることは解ります。
この世の物質はたとえば水のように絶えず循環しています。人も始まりがあり終わりがあり、終わりがまた始まりになります。地球は一分、一時間、一日、一ヶ月、一年と循環していますが、それ以上に人の知らない循環があります。それが天時であり、今の地球の天時は、1日で言えば夕方、四季で言えば秋の時期に入っています。
今日、人間は物質中心の考え方になり、諸悪が蔓延して人間本来の善を失いつつあります。己の欲を満たすために人を傷つけおとしいれます。
わが子がその様なことをするのを見る親の悲しみはいかがなものでしょうか。やはり悪を善に改めるように導くでしょう。しかしそれでも治らない場合は涙をこらえて、罰を与えなくてはなりません。
朝(春)を第一期(青陽期)、昼(夏)を第二期(紅陽期)、夕(秋)を第三期(白陽期)とすれば、いま天時は第三期に至り、やがて暗い夜(冬)をむかえる時期に来ています。
そういう訳で、私たちの魂(霊性)の生みの親である、
ラウム様は子供たち(人間)が正しい道をふむことによって、やがて迷わず家(理天)に帰ってくるのを願い、兄弟(佛、仙、菩薩)をつかわして子供たちが家に帰る道を広く伝えることになったのです。しかし、天道は光明な大道であることにはかわりがないので、悪の子は通ることができないのです。
三期は本来は、太平無事な世の中で一万八百年続くのですが、それは善の子でこそ造れる世の中ですから、悪の子を滅ぼす三期末劫という大災難がやってきて地球を襲います。その淘汰にあわずに済むのは、ただ得道して自分の欲を少しずつ去り、善を行う者のみです。
明治三十八年(1905年)から三期(白陽期)にはいり、昭和五年(1930年)から、人間だけでなく多くの気天の神仙、地獄の亡霊も全て救うことができるようになりました。
これを三曹(気天界、人間界、地獄界)普度といい、皆様の祖先も天国に送り返すことができるようになりました。これを超抜といいます。得道して功徳を多く立てた人は、祖先を超抜できる資格を持てます。(戻る)
得道と三宝
道の災難、三期末劫から逃れ、やがて光明な大道を歩くためには天壇(先天の佛壇)におもむいて、天門をくぐる鍵を受けなければなりません。この鍵を得ることを、道を得ると書いて得道(とくどう)といいます。
まず、 地府の閻魔大王の名簿から自分の名前を消してもらい、新たに天国(理天)に登録し直すわけです。
次に、三つの宝(三宝)をいただいて、得道の証とします。
釈迦も孔子も観音菩薩も皆この三宝を得て理天に帰ったのです。この三宝はいわば悟りの法であり、それが一般に広く伝えられるのは今のこの時期を除いて二度と再びありません。(戻る)
収円の三佛
一般の会社でも時代が移り社長が変わるごとく、理天でも担当が代わります。
第二期は釈迦の時代でしたが、今の第三期は弥勒古佛が天盤(宇宙全て)を司り、済公活佛、月慧菩薩の二方が道盤(三界)を受け持ち、天道を短期間で世界中至る所に伝える仕事をしています。弥勒古佛、済公活佛、月慧菩薩の三佛を三期収円の三佛といいます。そして観音菩薩がその道務を補助しています。さらに多くの仙佛が善縁者を訪ねて、多くの点伝師が直接皆さんに三宝を伝える仕事を代理として分担しています。(戻る)
まとめ
小さな自分の殻に閉じこもっていれば、「井の中の蛙大海を知らず」「夏虫は氷を語らず」の如く、物事の真理を明らかにすることはできません。しかし、皆さんが見えぬところにある真理をたずね、純善に至るように努力すれば世界は三期末劫に会わずに済むかも知れません。孔子の言われた「大同世界」の思想は世界中の人が自分中心の生活でなく、自分を相手の為に役立てる、相手中心の慈悲の心で生きることができれば達成することは可能です。
難しいといってそれをしなければ、皆滅びざるをえないギリギリの線まで天時は動いてきました。皆さんが早く道理を悟り、一人でも多くの衆生に三宝を伝えることがでるように、心を尽くしていただきたいのです。
天道はこの地球が生まれるより以前からある大道です。今聞いたからといって今生じたわけではありません。新興宗教でもありません。運営の主権は全て天にあり、人はその天命のもとに、道務を行いますから人事で組織した団体でもないのです。そして、一定の時期に一定期間、しかも善縁者だけしか伝えられませんので、この法船に乗り遅れても待ってはくれません。この縁を大切にして佛との縁を深く結び、その佛光にうるおい、なおかつ自らも佛光を発してあたかも、動く灯台の如くになって善悪入り乱れたこの世を救ってほしいのです。
善縁ある皆様に
ラウム様の心を了解し、佛や菩薩、我らの直接の師、済公活佛にならって、道を伝える仕事を助け、分担していただければ幸いです。(戻る)
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